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『藤川球児の“たら・れば”を想うとき……』

木村公一スポーツライター・作家
(写真:ロイター/アフロ)

 藤川球児が引退した。

 筆者は数えるほどの取材機会しかないため、彼の心の奥底まではわからない。

 それでも、脳裏にいつまでもこびりついている光景がある。もし彼があの場面でマウンドに立てていたら、その後の彼の投手人生はどうなっていたのだろうか。

 もう11年も前のことになる。2009年3月の第2回ワールドベースボールクラシック(WBC)。その前年までの彼の凄さは、いまさら記すまでもないだろう。火の玉ストレートを武器に、クローザーとして、欠くべからざる存在として、ジャパンの一員に加わっていた。

 ところが登板する彼の投球にシーズン中の威力が感じられない。理由は日本と異なるメジャー球と同質の使用球が滑りやすく、また爪が割れたという話まで流れた。

 2次ラウンドのサンディエゴ以降では、レンガのように固いマウンドが、身体全体を使ってしなるように投げる藤川には適応しなかった。結果抑えても、どこか不安定な投球はスタンド記者席の我々から見ていてもわかった。

 そして迎えた3月22日、準決勝の対アメリカ戦の8回を過ぎたあたりのことだ。得点は6対4。2点差に迫られ、もう絶対に追加点が許されない局面。残すところは9回の守りだけ。ドジャースタジアムのジャパン側の電話が鳴った。ベンチの山田久志コーチから、ブルペンの与田剛コーチへの指示だ。ブルペンでは藤川とダルビッシュが投球練習をしていた。ともにいつでもいける状態になっていた。

 すると与田コーチは、ゆっくりと藤川ではなく、ダルビッシュに近づいて声をかけた。

 なにを言ったのか、大歓声にかき消され聞こえない。ただダルビッシュは驚き、右手の人差し指を自分の胸にあて、「ぼくがですか?!」と聞き返した。

 原辰徳監督と山田コーチが、押し迫った準決勝の最終回、抑えの役目を藤川からダルビッシュに代えた瞬間だった。

 その結果、ダルビッシュは見事に火消し役を全うし、決勝でも韓国相手に完璧な投球を見せ、金メダルに貢献した。

グータッチでマウンドに向かうダルビッシュを送る投手たち。その中(左から2人目)に藤川がいる【写真=筆者撮影】
グータッチでマウンドに向かうダルビッシュを送る投手たち。その中(左から2人目)に藤川がいる【写真=筆者撮影】

 しかし筆者は、マウンドに立つダルビッシュ以上に、ブルペンに残された藤川を思った。

 日本代表のクローザーとしてジャパンのユニフォームを着た。にもかかわらず、最後の最後で、その出番を奪われた。無論、自身の投球の不十分さは自覚していただろう。代えられたことに異議を唱える気もなかったはずだ。

 ただ「プライド」という言葉では表しきれない感情が、藤川の心の中に渦巻いてはいなかったか。自分が投げている前を与田コーチが通ってダルビッシュに最終回を任せた。ベンチの首脳陣は自分を見限った。なんのためにアメリカまでやってきたのか。チームに必要ない存在なのか? 悔しさ。腹立たしさ。結果を出せない無念さ、それとも……。

 藤川は、果たしてどんな想いで最終回、別の投手がマウンドに向かっていく後ろ姿を、見つめていたのだろうか。

 そんな感傷じみた質問を向ける機会を逸したまま、時は過ぎた。そして引退を表明したとき、あらためて当時の彼の想いに関心が及んだ。

 ある、藤川に極めて近い関係者が、こんな話をしてくれた。

「あのとき代えられたこと、ベストのパフォーマンスを発揮できなかったこと。当然本人も理解して、仕方がないことだと思ったはずです。ただ気持ちは簡単に整理できるものではない。いずれにしてもあの交代で、球児のプライドはとても傷ついたはずです」

 ただその一方で、藤川はこうも考えていたのだという。

「抑えを外されたなら、じゃあほかに自分がチームに対してなにが出来るのか。それはリリーフ陣のまとめ役だ。間違っても外されたことを顔に出し、あるいは荒れたりしてチームを乱してはいけないって」

 藤川は揺れ、乱れる心を落ち着かせるように、切り替えたのだという。

「球児はそういう切り替えを、一晩でする男なんです。たとえば日本のシーズン中でも、打たれチームが敗れても、遠征先のホテルで切り替えて、翌日、グランドに行ったときは前日のことなど忘れて振る舞える」

 WBCも準決勝から決勝までは、中一日しか猶予はなかったが、藤川はこの中一日の練習日には、もう「代えられたことへの傷つき」を心の奥底に封じ込めた。試合中の肩を作るタイミングやペース配分など、抑えになれないダルビッシュに助言し、サポート役に徹した。

 そして、関係者はこう続けた。

「決勝戦のあと、球児に松坂大輔がこう言ったそうです。“なんで球児が最後(クローザー)じゃなかったのかな”って。“ここまで勝ち上がってこれて、ブルペンがまとまってこれたのも、球児が頑張ってくれたから。俺は球児に投げて欲しかった”って」

 その松坂の一言に、藤川は救われた思いがしたという。そして自分がジャパンのユニフォームに袖を通した意味を、このとき見いだせたのだと。

藤川は、なにを思いつつ他の者が立つマウンドを見つめていたのか。【写真=筆者撮影】
藤川は、なにを思いつつ他の者が立つマウンドを見つめていたのか。【写真=筆者撮影】

 もし藤川がWBCで実力通りの好投で抑え役を演じていたら、松坂からかけられた言葉はなかった。むしろ注目と賛辞とともに「良き思い出」として残っただろう。だが苦い思い出ではあっても、いやだからこそ藤川にはかけがえのない記憶と経験をもたらした。

 それは4年後のメジャー挑戦でも同じことが言える。夢を実現させたメジャーのマウンド。ただWBCの経験から、容易に適応出来るとは考えていなかった。それでもあえて挑戦し、春季キャンプ早々からヒジの違和感を覚え、靱帯の再建手術を余儀なくされた。

 ではもし時計の針が戻せたら、藤川はメジャー行きを回避し国内でのプレーに専念していただろうか?

 前述の関係者は言い切った。

「いや、同じリスクがあったとしても、アイツは絶対、挑戦したと思いますよ。ダメだったからこその挑戦」

 それに、と言って、こう続けた。

「結果的には成功しなかったと思われるメジャー暮らしでしたが、手術やマイナーリーグなどでもいろいろな経験をして、良き人たちにも出会い、それは帰国後の阪神時代にも生かされていました。だから時を戻せても、彼が諦める理由はないんですよ」

 11月10日の引退セレモニーでの挨拶にも、そんな彼の反骨心が込められていた。

 ~~松坂と上原さんがメジャーリーグに行って、追いかけるように自分もメジャーリーグにチャレンジしました。しかし、本当に苦しい事ばかりで、孤独で、また新人の頃のようにうまくいかない日々が訪れ、明日すら見失いそうになっていました。

 そんな時、阪神タイガースに入団してからの苦労した経験が僕を救ってくれました。「俺は負けていない。見返してやる!」。独立リーグからもう一度リスタートして自分の力を見せて地元・高知の子供たち、そして日本のプロ野球ファンをびっくりさせたいと思いました~~~

 人生に“たら・れば”は意味のないことだ、という。とりわけスポーツという勝負の世界に於いては、禁句だとも言われる。だが藤川球児の場合は少し違うかも知れない。のちに振り返って分岐点、あるいは後悔と感じることも、彼はその時々で肥やしにし、克服してきた。言い換えれば反骨心と「絶対に諦めない」という信念を確かめる契機に出来たのではないか。

 だからこそ、今、笑顔でマウンドに別れを告げることが出来た。

 いつか、彼に答え合わせを頼んでみようと思う。自身の選択が、折に触れての挫折が、どれだけ野球人・藤川球児を培ってきたのかという問いへの答え合わせを。

スポーツライター・作家

獨協大学卒業後、フリーのスポーツライターに。以後、新聞、雑誌に野球企画を中心に寄稿する一方、漫画原作などもてがける。韓国、台湾などのプロ野球もフォローし、WBCなどの国際大会ではスポーツ専門チャンネルでコメンテイターも。でもここでは国内野球はもちろん、他ジャンルのスポーツも記していければと思っています。

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