10年前の3月18日、カイロで発信された震災後の日本へ激励のエール/日本人が見ていない「アラブの春」
10年前の3月18日、東日本大震災から1週間後のカイロのサッカーの国際試合で、エジプトからに日本に向けて発信された激励のエールを見て、私は息をのんだ。同じ時の流れでも「『アラブの春』10年」と「東日本大震災10年」は決して交わらなかったが、私が見た光景は「アラブの春」と日本の震災が交差した瞬間として記憶されている。
■タハリール広場で上がった若者たちの歓声
私は当時、朝日新聞社の中東駐在編集委員として「アラブの春」を取材し、日本の震災のちょうど1か月前の2月11日夕、カイロのタハリール広場を埋めた若者たちから歓喜の声が上がるのを聞いた。エジプト全土で「政権崩壊」を訴えて非暴力のデモが広がり、18日間続いたことで、30年間、国を支配していた強権独裁のムバラク大統領が辞任したのである。
デモの4日目にタハリール広場周辺でデモ隊と警官・治安部隊の大規模な衝突があり、警察側の銃撃によって、デモ隊の約700人が死んだ。その後、デモ隊は広場に入り、広場の占拠を続けた。軍隊が民衆鎮圧に動かなかったことで、占拠2週間後、ムバラク大統領は辞任に追い込まれた。その歓喜の中で、私が話を聞いた若者は私が日本人だと知って、「私はずっと日本に行きたかったのだ。しかし、いま初めて、私はエジプトに残ってエジプトのために働きたいと思う」と語った。
「自由と公正」をスローガンとして、若者たちが腐敗した強権体制に「ノー」を突き付けた「アラブの春」は、その年の1月にチュニジアで若者たちのデモによってベンアリ大統領が亡命した「ジャスミン革命」で始まった。しかし、その動きがアラブ世界に広がって「アラブの春」となるのは、エジプトの革命の後だった。リビア、シリア、イエメン、バーレーンなどは特に激しかったが、政治の変革を求める若者たちのデモはすべてのアラブ諸国に広がった。
■若者組織がつくった革命評議会
ムバラク大統領が辞任して一か月後の3月11日、私はカイロのタハリール広場に歩いていくことができるホテルに宿泊して、毎日のようにカイロで取材をしていた。その前日、私は自ら編集していた朝日新聞社のデジタルサイト「中東マガジン」で、若者リーダーたちが組織した「若者革命連立評議会」の記事を掲載した。
革命評議会は、世俗派の4月6日運動、イスラム派のムスリム同胞団青年部など、イデオロギーを超えた7組織の若者たちが作り、タハリール広場近くのビルで、革命をどう進めるかという会合を開いていた。ムバラク時代にはイスラム派と世俗派が議論するような光景はなかった。
記事ではその評議会の7人の執行会メンバーの7人の一人のインタビューを掲載した。そのメンバーは、ムバラク辞任後、実権を握った軍に対して、「ムバラク政権での腐敗した人物やデモ隊を銃撃して殺害した人物を追放して新たな内閣を組閣させるよう求めた。さらに政治犯の釈放や非常事態令の解除、(秘密警察の)国家治安機関の廃止なども求めている」と語った。
当時の記事を読むと、若者たちのデモはエジプトだけでなく、中東全域に広がり、中東が大きな変革と激動の時を迎えているという熱気があったことを思い出す。その時、東日本大震災が起こった。その日、私はホテルの朝食をとって、部屋に戻ってテレビをつけた時に、海が町を呑み込む、信じられない映像を見て、言葉を失った。日本とエジプトは6時間の時差である。
■革命後初のサッカー国際試合、浮かび上がった日の丸
それから1週間後の3月18日、私はエジプトの革命後初めて行われる国際試合となったサッカーのアフリカ・クラブ選手権が行われたカイロスタジアムにいた。革命前はサッカーの試合では、スタジアム前に治安部隊の装甲車が並び、ヘルメットとシールドで完全防備の治安警察が出入り口を固めていた。この時は、スタジアムに警官の姿は一人もなく、数万人入るスタジアムが若者たちで埋まった。
観客席には人の顔が描かれた何本も幟(のぼり)が立った。革命で警官の銃撃で死んだ若者たちの顔が描かれたものだった。エジプトチームが登場すると、うなるような歓声が沸き上がった。先は何も見えないが、自由と可能性だけがあるという解放感の中で、若者たちは自信にあふれていた。
その時、一瞬、歓声がやんだ。何が起こったのかと、周囲を見回すと、観客席の上にある巨大なスクリーンに、旗の四隅をもってトラックを歩く選手の映像が映し出されていた。試合を実況中継するテレビの映像がその巨大スクリーンに映し出されているのだ。その旗は、日の丸だった。さらに日の丸に、日本語が書かれている。「私たちの心は日本と共にあります」と読める。それは東日本大震災の被害を受けた日本に激励をアピールだった。
サッカー好きのエジプト人が心待ちにしている国際試合の開会のセレモニーの中で、日本へのアピールが流れたことに、私は驚いた。強権体制の下では、何か社会の表面に出る出来事のほとんど権力が仕組み、民衆はそれに動員される存在だった。民衆の方から何か始めようとすれば、必ず秘密警察に探られることになる。政府が崩れ、人々は自分たちのことだけで手一杯の時はずなのに、大震災の被害を受けた日本に向けて激励のアピールをする動きが出たのだ。
■金曜礼拝で日本への支援のメッセージ
その日はちょうどイスラム教徒の集団礼拝がある金曜日で、試合前の午後、私はカイロ中心部のザマリク地区にあるモスクを取材した。その前日、イスラム教権威のアズハルモスクのファトワ(宗教見解)委員会の元委員長だった宗教者から「大震災で多くの人々が亡くなった日本に、イスラム教徒として哀悼の意を示したいから、取材に来て、私たちの思いを伝えてほしい」という連絡があった。私はモスクに取材に行き、礼拝後には、信者は「エジプトは日本を支援する」とアラビア語と英語で書かれた日の丸の小旗を持って外に出てきた。
カイロスタジアムの国際試合は、その日の夕方だったので、エジプト人の間に、日本にメッセージを送りたいという思いが高まっているのは感じていた。東日本大震災の日の11日の夕方、私がインタビューした若者革命連立評議会の執行委員からも、電話があり、「テレビで日本の大地震について知りました。お見舞い申し上げます。日本のみなさんのご無事を祈ります。神のご加護がありますように」という丁重なお見舞いを受けた。
■中東中から届いたお見舞いと激励のメール
お見舞いのメールは、エジプト国内はもちろん、私が取材したイスラエルによる封鎖の下にあるパレスチナ自治区ガザや、なお混乱が続いていたイラクのバグダッド、さらに、かつて日本の自衛隊が駐留していたイラク南部のサマワからも届いた。みな、「日本の人々のご無事を祈ります」と書かれていた。
私はその時、カイロで取材していたが、当時、私が拠点を置いていたエジプト北部の都市アレクサンドリアの青年からも日本語のメールが届いた。日本のアニメを見て育ち、独学で日本語を勉強しているという若者だった。原文のまま引用する。
こんにちは
津波と地震のニュースはとても悲しいです。
原発での爆発のニュースもとても悲しいことです。
ご家族とご友達がみんな無事のままでいることを望んでいます。
日本への尊敬や親しみで、今の状態がとても悲しいと思います。
でも、日本人は強くて、日本の歴史では、もっと大変な状態に対して、負けませんでした。
ですから、日本はすぐ元よりいい日本になると思います。
人がなくなって、悲しいです。
原発の状態で、大変にならないことを望んでいます。
私にはできることがあったら、教えてください。
■「ゼロから復興を遂げた日本」への憧れ
日本は中東で、焦土の中から復活し、成功と繁栄を達成した国として人々から尊敬を受けてきた。1994年パレスチナ和平が結ばれてパレスチナ自治が始まった時、2003年イラク戦争でフセイン政権が崩壊した時、そして、2011年エジプト革命でムバラク大統領が辞任した時と、パレスチナ人も、イラク人も、エジプト人も、みな同じく自分たちの将来を「ゼロから復興を遂げた日本」と結びつけて、「これから私たちは日本のように発展するのだ」と語った。
「アラブの春」の時には、すでに韓国や中国が日本を凌駕する勢いとなり、産業国家としての日本の影は薄くなっていた。しかし、「ゼロからの復興を遂げた国」という〝日本伝説〟は「アラブの春」の若者たちにも受け継がれていた。日本のアニメを見て育ってきた若者たちでもあった。
テレビで流れた東日本大震災のすさまじい映像は、目標としていた日本を襲った悲劇としてアラブの若者たちにも大きな衝撃を与えた。そのような思いが、震災から一週間後のサッカーの国際試合で、日の丸を掲げての日本への激励のアピールとなった。
■日本で「アラブの春」への否定的な声
あれから10年が過ぎ、アラブ諸国の惨状は見ての通りである。シリア、リビア、イエメンはいまも内戦が続いている。エジプトは民主的選挙が行われて初めての文民大統領が生まれたものの、軍によるクーデターによって軍が主導する政権が生まれ、言論弾圧はムバラク時代よりも強まっている。2014年から17年まで、イラクとシリアにまたがる残酷なイスラム過激派組織「イスラム国」(IS)が出現した。
私は、これまで折に触れて、「アラブの春」以降の中東の動きを書いたり、話しをしたりしてきたが、日本人の「アラブの春」に対する受け取り方が、非常にネガティブだと感じている。「アラブ世界の民主化は政治的な混乱をもたらすだけではないか」という意見さえ一度ならず聞いた。
日本では、なぜ、「アラブの春」に否定的な見方が多いのかと考えて、「『アラブの春』10年」と「東日本大震災10年」がほとんど重なることが一つの要因になっているのではないかと思う。日本にとっては、「アラブの春」への関心は、東日本大震災があった3月11日で終わったのである。あれだけの大災害であるから、当然のことではあるが、日本の報道は、大地震、大津波、原発事故という一連の大災害の報道一色になった。私自身は中東でアラブ世界の歴史的な激動を日々、取材していたが、東京の本社の反応は非常に弱かった。
世界は「アラブの春」の動向に強い関心を向け、日本の大災害と並んで、中東の激動も国際ニュースのトップだったが、日本では報道からも、日本人の関心からも、震災から2年ほどは「アラブの春」は焦点から外れているのである。中東が大変なことになっていることを日本人が気づくのは、2012年8月下旬に女性ジャーナリストの山本美香さんがシリア北部のアレッポでシリア政権軍の銃撃で殺害されたニュースではないか、と記憶している。それも一時的に山本さんの死に関心が向いただけで、シリア内戦に関心が向いたわけではなかった。
■民主主義が実施された「アラブの春」の2年間
東日本大震災によって、日本では報道も、日本人の関心も限定的だったが、2011年―12年の「アラブの春」では、長年続いた強権体制が崩れて、民主主義が実現され、言論の自由を供養樹した時期があった。エジプトでは2011年11月から12年1月にかけてムバラク体制崩壊後初めての国民議会選挙が実施され、2012年6月には大統領選挙が行われた。大統領選挙では国立大学の工学部教授だったムルシ氏が軍出身の候補を破って当選し、エジプト史上初の文民大統領となった。
ムルシ大統領は、イスラム組織ムスリム同胞団の幹部であったが、軍出身候補との決戦投票となった時、「アラブの春」を始めた世俗派の若者たちもムルシ候補に投票した。軍が権力を握ってきた国で、若者たちは民主化を前に進めるために、同胞団への不信感を超えてムルシ氏支持に動いたのである。ムルシ政権は若者たちの支持を受けたことを忘れたようなイスラム的な手法で若者たちの反発をうけ、1年で軍のクーデターを招いてしまった。しかし、少なくとも、大統領選挙までは、エジプト革命の熱気は続いていた。
エジプト大統領選挙の翌月の2012年7月にはリビアでカダフィ体制崩壊後初めての憲法制定議会選挙があった。当時、私はトリポリで選挙運動を取材し、投票日に投票所にも行った。リビアでの選挙は、42年年間続いたカダフィ体制の前の王政時代の1965年に実施されたのが最後で、選挙管理委員会のメンバーも、投票者のほとんども人生で初めての選挙だった。
■「アラブの春」は暴力によって「冬」の時代へ
リビアの議会選挙では全200議席のうち80議席は政党による比例代表で、残る120議席は選挙区ごとの選挙。比例代表に374政党・リストが登録し、選挙区には2600人を超える立候補があった。カダフィ時代は厳しい言論統制があったリビアだが、2012年の6月から7月にかけて、選挙運動でも投票でも、人々の表情は明るかった。
ところが、2013年を転換点として「アラブの春」は暗転し、「冬」に向かう。6月のエジプトの軍事クーデターだけでなく、リビアではカダフィ体制を倒した民兵組織の台頭がある。シリアで1000人以上の反体制地域の市民が毒ガスによって死んだ事件が起き、イエメンではシーア派武装勢力が首都サヌアを占拠し、内戦への道を進み始めた。そのような暴力の噴出の流れの中で、2014年6月、ISが登場してくる。ISによって日本人ジャーナリストの後藤健二さんと、会社経営の湯川遥菜さんが殺害された。
日本で「アラブの春」について戦争と破壊というマイナス面ばかりが強調されるのは、日本人の多くが強権体制が倒れた後、アラブの若者たちが生き生きと政治や社会に関わった最初の2年間を見ていないからであろう。私は10年前を振り返って、東日本大震災から1週間後のカイロスタジアムで見た日本へのエールの記憶を思い起こして、あれは「アラブの春」の光景だったと納得する。若者たちが政府から命令され、動員されるのではなく、自律的に国や社会と関わり、世界と関わろうとする動きであり、それが大震災の被害を受けた日本に向けられたということである。
■なお「民主主義」に対する高い肯定の世論
当のアラブ人は「アラブの春」をどのように考えているのだろうか。特に「アラブの春」が目指した民主化をどのように考えているだろうか。米プリンストン大学とミシガン大学が支援してアラブ世界で行われている世論調査「アラブ・バロメーター」の第5弾(2018-19年)がエジプト、チュニジア、イエメンなど12か国で実施され、2020年春に発表された。その中に民主主義についての質問がある。
「民主主義は最善の政治システムか」という問いに、「そうだ」と答えた割合は、ヨルダン85%、レバノン83%、チュニジア79%、イラク76%、パレスチナ74%、リビア74%、エジプト70%、スーダン70%、アルジェリア69%、モロッコ63%、クウェート62%、イエメン52%――となっている。
「アラブの春」で実現した民主主義をいまも維持しているチュニジアで肯定的な評価が高いのは当然としても、民主化が失敗し、悲惨な状況になっているリビアやエジプトでも7割の人々が民主主義を肯定していることは驚きである。現在、世界でも最も悲惨な状況にあるイエメンでさえ、半数を超える肯定評価がある。
英国の王立国際問題研究所のサイトに掲載された「『アラブの春』10年」と題する論考は、アラブ・バロメーターの調査結果を引用しながら、「民主化は『アラブの春』の基本的な要素だった。10年間の否定的な経験がありながら、アラブ諸国の人々はいまなお民主主義を支持している」と結論付けている。
同じアラブ・バロメーターの調査で、「言論の自由はあるか」という問い対して、「ある」と答えたのは「2018-19年」調査の全体平均で43%だったが、同じ質問で「ある」と答えたのは、2010-11年調査では60%、2012-14年は66%、2016-17年63%と推移した。それが2018-19年調査では20ポイントも急落し、アラブ諸国で政府による言論統制が強化されている現状を映し出した。
■「アラブの春」を巡る2つの評価
「『アラブの春』10年」を巡って、アラブ世界の論調を調べてみると、二つの見方がせめぎ合っている。エジプトやサウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)など民主化を抑え込んでいる国々では「『アラブの春』は失敗し、破壊と流血だけをもたらした」という否定的な見方がメディアでは喧伝されている。一方で「アラブの春」に参加した若い世代の間には「『アラブの春』はまだ終わっていない」とする見方が強い。
イエメンの「アラブの春」で平和的なデモを率いたことで2011年のノーベル平和賞を受賞した女性活動家タワックル・カルマン氏は「『アラブの春』10年」についての英タイム誌のインタビューで、「『アラブの春』を経験した国の民衆は自由と民主主義を決して諦めはしません。歴史を振り返れば、すべての偉大な革命の後に反革命の動きが来るが、変革の車輪が一度動き始めたら目標を達成するまでは止まることはない」と語っている。
東日本大震災の一週間後のカイロスタジアムから、革命で命を落とした仲間たちへの鎮魂の祈りと共に、震災下の日本に向けられた激励のエールが日本に届くことはなかった。不幸にも大震災によって、「アラブの春」を見ることがなかった日本人が、まるで「アラブの春」はなかったかのように考えたり、発言するとすれば、激励のエールに込められたアラブの若者たちの思いを裏切ることになるだろう。