神君伊賀越で、徳川家康の前に立ちはだかった百地丹波とは
今回の大河ドラマ「どうする家康」は、嶋田久作さんが演じる百地丹波が話題になった。百地丹波とはいかなる人物なのか、考えることにしよう。
百地氏と言えば、三太夫が有名であろう。三太夫は織豊時代に活躍し、かの有名な盗賊の石川五右衛門に忍術を授けたという。しかし、のちに五右衛門は三太夫の妻などを殺害し、金を盗んで逃亡した。この話は、17世紀に成立した『賊禁秘誠談』という書物に書かれたものである。
しかし、三太夫は良質な史料に登場するわけではないので、単なる物語上の架空の人物とされている。困ったことに、後述する百地丹波は、三太夫と混同して伝わっているのである。以下、改めて百地丹波について、もう少し詳しく考えてみよう。
百地三太夫は弘治2年(1556)に誕生し、寛永17年(1640)に没したという。その本拠は伊賀国名賀郡喰代(三重県伊賀市)で、今も同地には「百地丹波守城趾」が残っている。城跡には堀が残っており、近くには妻と愛人の伝承にまつわる「式部塚」がある。
百地丹波は、伊賀三大上忍(ほかは藤林長門守、服部半蔵)の1人として知られている。一説によると、百地氏は名門の大江氏を出自とするといわれ、伊賀国名張郡から大和国宇陀郡にかけての地域を支配していたという。相当な威勢を誇っていたのだ。
天正7年(1579)、織田信雄(信長の次男)が伊賀国に攻め込んできた。信雄は独断で作戦を実行したが、あえなく伊賀衆に敗北を喫した。敗報を耳にした信長は、信雄を叱責したという。このとき、柘植保重に勝利したのが、百地丹波の率いる軍勢だった。
2年後、再び信雄が約5万の兵を率いて、伊賀国に侵攻した。百地丹波は柏原城(三重県名張市)に拠って最後まで抵抗したが、しょせんは多勢に無勢で降参に追い込まれた。こうして天正伊賀の乱は終結し、伊賀国は織田一族が領有することになった。
残念ながら、その後の百地丹波の動静ははっきりとしない。一説によると、伊賀忍者を率いて、根来寺(和歌山県岩出市)に逃れたという。神君伊賀越で家康の前に立ちはだかったのか否かは、不明である。