【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田義盛を窮地に陥れた、泉親衡の乱の知られざる全貌とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条義時と和田義盛の対立が顕著となった。今回は義盛を窮地に陥れた泉親衡の乱について、詳しく掘り下げてみよう。
■泉親衡の乱の勃発
北条義時は父の時政を伊豆に追放すると、幕政を掌握するに至った。しかし、すべての御家人が義時に与同したわけではなく、和田義盛は対立の様相を示していた。そんな状況下で勃発したのが泉親衡の乱である。
親衡は信濃国の豪族で、小泉荘(長野県上田市)に本拠を置いていた。ただし、生没年は明らかでなく、その生涯にも不明な点が多い人物でもある。
建暦13年(1213)2月、阿静坊安念という僧侶が千葉成胤のもとを訪ねてきた。安念は、親衡の郎党・青栗七郎の弟だった。そこで、安念が口にしたのは、驚くべき計画への協力依頼だった。
安念は成胤に対して、源頼家の遺児・千寿丸を擁立し、義時を打倒するので味方になってほしいと述べた。驚いた成胤は、その場で安念を捕らえ、義時に差し出したのである。
■意外な協力者
安念を尋問した結果、意外な事実が明らかになった。親衡の求めに応じた面々は、三百三十余人におよび、そのなかには義盛の子の義直、義重、そして甥の胤長が含まれていたのだ。
そのとき義盛は伊北(伊隅)荘に出掛けており、鎌倉を留守にしていたので、乱を知る由はなかった。このほか、八田知家の子・三郎、上総広常の甥・臼井十郎などが策謀に加わっており、翌日には十数人が捕らえられたのである。
策謀の発覚後、親衡は鎌倉に潜伏していたところ、工藤十郎と合戦になったが、混乱に乗じて逃亡した。義直、義重は義盛の助命嘆願で難を逃れたが、胤長は許されることなく、陸奥国に流罪となったのである。
■まとめ
乱については、不審な点が多い。処罰されたのは和田一族だけで、首謀者の親衡は逃亡して、ついに捕まることがなかった。そもそも親衡がよくわからない人物で、本当に三百三十余人もの協力者を集めたのか不審である。義時による策謀の線も捨てきれない。