賤ヶ岳の戦いで、なぜ前田利家は盟友の柴田勝家を裏切ったのか
政治であれ、職場であれ、信じていた人から裏切られることは、決して珍しくない。それは戦国時代も同じことで、賤ヶ岳の戦いでは前田利家が盟友の柴田勝家を裏切った。その理由を考えることにしよう。
天正10年(1582)6月の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に急襲されて横死した。その直後、羽柴(豊臣)秀吉が山崎の戦いで光秀に勝利し、光秀は逃亡の途中で土民によって殺された。
続く清須会議では、秀吉が信長の遺領配分を有利に進めるなどし、一歩抜きんでた存在になった。その際、柴田勝家は秀吉に後れを取ったといわれている。
ところで、天正2年(1574)、前田利家は越前一向一揆の討伐に向かい、勝家の与力として行動した。一揆の鎮圧後、利家は勝家の与力として、北陸を転戦し、上杉景勝とも対峙した。天正9年(1581)8月、利家は信長から能登を与えられ、七尾城を居城に定めたのである。
天正11年(1583)1月、信長の重臣だった滝川一益が秀吉に対して挙兵した。その2ヵ月後、勝家が一益の動きに呼応して近江に出陣すると、同年4月に織田信孝(信長の三男)が岐阜城で秀吉に兵を挙げた。しかし、一益、勝家、信孝は秀吉に敗れ、一益以外は戦いの直後に死んだのである。
このとき、去就に迷っていたのが利家である。これまでの関係もあって、利家はそのまま勝家に与していた。勝家にとっても、利家は信頼できる存在だった。そのようなこともあり、天正11年(1583)4月に賤ヶ岳の戦いが勃発すると、利家は約5,000の兵を率いて勝家に与したのである。
ところが、利家は秀吉軍と戦うことなく、撤退した。利家の軍勢が引き返したので、劣勢となった勝家は敗北を喫し、居城のある北庄城に向かった。秀吉は勝家を追撃すると、ついに滅亡に追い込んだのである。もし、利家が裏切っていなければ、もう少し事態は変わっていたのかもしれない。なぜ、利家は勝家を裏切ったのだろうか。
先述のとおり、利家は勝家の与力だったが、別に勝家の家臣だったわけではない。利家は与力として勝家の指揮命令下にあったが、主従関係にはなかった。したがって、利家は無条件で勝家に与する理由はなく、情勢を見極めたうえで、いずれに与するか判断することができたのである。
おそらく、利家は秀吉からも味方になるよう要請があったと考えられ、冷静に状況を分析したうえで秀吉に与したのだろう。利家は秀吉に降伏すると、そのまま先鋒として北庄城に攻め込んだのである。