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【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経の妻・里とは、どんな人物だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経、里、娘の墓がある千手堂。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第20回では、源義経が討たれ、その妻・里もともに亡くなった。妻の里は比企尼の孫といわれているが、どんな人物だったのか詳しく掘り下げてみよう。

■里とは

 里は郷御前、あるいは京姫、北の方と称される女性で、仁安3年(1168)に誕生した(以下、里で統一)。父は河越重頼で、母は比企尼の次女だった。重頼は武蔵の豪族で、比企尼は源頼朝の乳母だった。

 なお、里を演じている三浦透子さんは、映画「ドライブ・マイ・カー」で注目された女優だ。

 源義経はこれだけの有力者に関わる妻を娶ったので、頼朝から将来を嘱望されていたのは事実であろう。2人が結ばれたのは、元暦元年(1184)9月のことだった。

■義経の活躍と失脚

 義経は頼朝の期待に応えて、平家を相手に大いに軍功を挙げた。文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで、ついに義経は悲願の平家追討を成し遂げたのである。しかし、その後の義経には過酷な運命が待ち構えていた。

 頼朝は義経の軍功を称えるどころか、かつて無断で検非違使に任官したことなどに激怒し、義経との関係を断った。当初、義経は頼朝に対抗しようとしたが、予想外に兵が集まらず断念し、里らとともに都落ちした。

 その後、頼朝は後白河法皇から義経追討の許可を得て、逃亡した義経を探索したのである。里の父で義経の義父でもある河越重頼は、縁戚関係にあったので、領地を没収されたうえで殺害された。

■義経と里の逃避行と最期

 義経は京都近辺に潜伏していたが、翌年になって里との間に誕生したのが娘である。乳飲み子を抱えていたのだから、義経と里の逃避行は困難だったに違いない。義経は山伏姿となって、怪しまれないようにしたという。

 文治3年(1187)2月、義経は東北の実力者である藤原秀衡を頼り、奥州平泉(岩手県平泉町)で匿われることになった。ところが、頼りにしていた秀衡は、同年10月に亡くなってしまう。

 後継者の泰衡は頼朝との関係もあって、義経の処遇に困り果てていた。秀衡が健在な頃は、頼朝も義経の件を強く言えなかったが、その死後は強気の態度で臨んでいた。

 文治5年(1189)閏4月30日、泰衡は頼朝の要請を拒むことができず、義経の討伐を決意したのである。そして、数百の兵を従えて義経の宿所である衣川館を襲撃した。義経は持仏堂で里と娘を殺すと、自らも自害して果てたのである。

■まとめ

 義経、里、娘の墓は、千手堂(岩手県平泉町)の境内にある。里は女性であるがゆえに、残された史料は乏しい。義経が都落ちする際、里は離縁することなく、運命をともにした。2人の愛情は、実に深かったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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