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世界平均気温は上昇を続け「+1℃」到達:COP21の背景にある「+2℃」目標の意味とは?

江守正多東京大学 未来ビジョン研究センター 教授
2015年1~10月平均気温の平年値からの変化(WMO)

世界平均気温が「+1℃」到達へ

世界平均気温が去年から今年にかけて記録的に上昇していることは以前の記事に書いたとおりだ。その後も上昇は続き、平年値(1981~2010年の平均)に比べて9月は+0.51℃、10月は+0.53℃と、「ぶっちぎり方」がさらに激しくなっている(データは気象庁)。

世界平均気温の偏差(WMO)
世界平均気温の偏差(WMO)

年平均で見ても、世界平均気温が観測史上最高になると見込まれることをWMO(世界気象機関)が発表した。グラフを見ると、今年の値はやはりずば抜けており、今世紀に入ってからの気温上昇の停滞を一気に取り返して、80年代、90年代の上昇ペースに戻ろうとするような勢いにみえる。

もちろん、エルニーニョが終われば世界平均気温は一旦下がるはずだし、それからまたしばらく停滞する可能性も残っている。しかし、今年ほどの大きさではないにしても、この上昇傾向がしばらく続く可能性もある(ここで、「いやいや、私はそもそも気候変動の科学を信用していないから」という方は、よろしければこちらを先にお読みください)。

さらに、このWMOの発表によれば今年の世界平均気温は産業化以前(ここでは、1880-1899年の平均で近似)に比べて「1℃」高くなったとみられる。この数字は、国際社会が掲げている気温上昇抑制の目標である「+2℃」の半分までついに来てしまったという意味で、象徴的である。

「+2℃」目標とは?

さて、観測された気温上昇の話はこの記事のまくらであって、本題ではない。

11月30日からパリで国連気候変動枠組条約の第21回締約国会議(COP21)が開催され、2020年以降の国際的な気候変動対策の枠組みの合意が目指される。そこで前提となるのが、今述べた「+2℃」以内という目標である(「+2℃」未満、ともいうが、実質的な意味は変わらない)。

「+1℃」に到達したことの象徴的な意味を噛みしめながら、この「+2℃」について考えてみたい(英国BBCの方も60秒で説明してくれているが、筆者なりにもう少し詳しい説明を試みる)。

国際合意としての「+2℃」目標は、2010年にメキシコのカンクンで行われたCOP16の合意で以下のように位置づけられた(前年のコペンハーゲンでのCOP15でも言及されたが合意文書が採択に至らなかった)。

産業化以前からの世界平均気温の上昇を2℃以内に収める観点から、温室効果ガス排出量の大幅削減の必要性を認識する

この目標は、その後のCOPやG7サミット等でも繰り返し確認されている。

気候変動により深刻な影響を受ける小島嶼国等はさらに厳しい「+1.5℃」以内を目標にすることを求めているが、国際社会はこれに配慮しつつも、「+2℃」の方を「より実現可能性が高い」目標(十分に高いかどうかは別だが)として支持しているようだ。

なぜ「+2℃」なのか

では、なぜ世界平均気温を「+2℃」以内に抑えるべきなのか?

「+2℃」を超えると危険な影響が生じるとIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書に書いてあるからだ、という説明を聞くことがあるが、それは違う。IPCC報告書には、何℃の気温上昇でどんな影響があるかは書いてあるが(それも不確かさが大きい)、どんな影響が「危険」(避けるべき)かは社会の判断であり、科学だけでは決められないという立場を明確にしている。

見方によっては、「+2℃」以内は厳しすぎる。後で述べるが、現時点で見通せる社会や技術を前提にすると「+2℃」以内に抑えるための対策費用は非常に高くなり、それによって回避できる気候変動の悪影響と比べても世界全体で経済的に見合わないという見方がある。

しかし、別の見方をすると、「+2℃」以内は緩すぎる。現時点でも既に、サンゴ礁の白化や死滅が起きている。北極圏に住むイヌイットの人々は氷が減って伝統的な文化を営めなくなってきている。そのような取り返しのつかない変化が、一部ではすでに起きている。しかも、先進国や新興国が排出した温室効果ガスが原因で、ほとんど温室効果ガスを排出していない貧しい国の人たちが深刻な被害を受ける傾向がある。これは著しい不正義であり、ただちに是正すべきだという見方がある。

このどちらかの見方が正しく、どちらかが間違っているというわけではなく、これは価値判断ないしは倫理観の問題である(一時流行ったマイケル・サンデルの政治哲学の本を読んだ人は、前者が「功利主義」、後者が「義務論」に近いことをおわかりいただけるかもしれない)。

したがって「+2℃」は、科学的な知見を参考にしながらも、何らかの意味で社会的、政治的に判断されて合意された数字だと理解するのがよいだろう。

気温上昇でさまざまなリスクが増加

気候変動のリスクについてはもう少し補足しておきたい。

まず、科学的にまだまだ不確かなことがある。たとえば、世界平均気温上昇がある「臨界点」を超えると、グリーンランドの氷が融けるのが止まらなくなると考えられる。そのスイッチが入ると、千年以上かけてグリーンランドの氷はすべて融け、それだけで世界の海面を7mほど上昇させる。何mも海面が上がるのは数百年先だが、そのスイッチを今世紀中に入れてしまう可能性があるのだ。臨界点が何℃かはよくわかっておらず、IPCCによれば「+1℃~4℃のどこか」である。「+1℃」であれば、そろそろスイッチが入ってしまってもおかしくないのだ。

また、社会の側にも不確かなことがある。たとえば、2011年にシリアの内戦が始まった背景に、記録的な干ばつによる食料不足があったという指摘がある。そして、気候変動により、そのような干ばつが起きやすくなっていた可能性がある。これをもって今日の難民やテロが温暖化の結果だと短絡的に言うべきではないが、気候変動の影響が国際社会秩序の混乱の引き金を引いたり、規模を拡大させたりする心配は今後も存在するといえるだろう。

これらのリスクはいずれも不確かだが、気温上昇が進むにしたがって発現の可能性が高まることは間違いない。したがって、これらを心配するならば、気温上昇を可能な範囲で低いレベルに抑えるに越したことは無い。

「今世紀末までに排出ほぼゼロ」の意味

では、どれくらい対策をすると、世界平均気温上昇を「+2℃」以内に抑えることができるのか。

ここにも科学的な不確かさがあるが、おおまかにいえば「今世紀中に世界のCO2排出量をほぼゼロにする」ことが必要である。つまり、これから経済発展する途上国を含めて、今世紀末には、世界全体でCO2を出さないような世界にたどり着く必要がある。

初めて聞く方には驚くべきことだろうが、これは別に気候科学者だけが知っていた秘密でも、妄信でもない。現に、今年6月にドイツのエルマウで行われたG7サミットの首脳宣言には「今世紀中に世界経済の脱炭素化が必要」との認識が示されている。主要国のリーダーたちがこの認識を共有しているのだ。

筆者は最近、いたるところでこの話をしているが、受け止められ方はさまざまだ。

たとえば、「息は吐いてもいいんですか?」と聞かれることがある。息はもちろん吐いていい。その分のCO2は植物が光合成で吸収してくれて、自然界で循環するためだ。

ほかに、「何時代に戻ればいいんですか?江戸時代ですか?縄文時代ですか?」という感じのリアクションもある。筆者の認識では、何時代にも戻る必要は無い。今よりもずっと豊かな社会にむしろ進歩しながら、CO2だけを出さないようになればよいのである。

果たしてそんなことは可能だろうか?

化石燃料が余っているのに使うのをやめられる?

「理論的には」可能である。CO2を出さないエネルギー源を増やしていって、ほぼ100%にすればよい。

再生可能エネルギーをどんどん増やし、蓄電池やITも使って系統を安定化させる。化石燃料を使うならば、出てきたCO2は大気に出さず、地中に封じ込める(CCS=「CO2隔離貯留」とよばれる技術)。暖房や運輸の燃料は電気か水素かバイオ燃料に置き換え、それらをCO2を出さずに作る。機器の効率向上やITで省エネを進めるのも重要だ。バイオエネルギーとCCSの組み合わせや大規模植林で、大気中のCO2を吸収することもできる。原子力も選択肢の一つだが、気候以外の論点(事故、核廃棄物、核不拡散、労働者の被爆など)も考慮した上で、使うかどうか判断すればよい。

これは、「脱化石燃料」(CCSを付けて使う分を除いて)を今世紀中に実現するということである。しかも、化石燃料を使い果たしたから使うのをやめるのではなく、化石燃料がまだたくさん余っているのに使うのをやめるということである。

「現実的には」これは不可能にみえる。つまり、現状の社会経済システムと現状で見通せる技術を前提にする限り、これを実現するには膨大なコストがかかるのだ。COP21に向けて各国から提出された削減目標も、合計して「+2℃」以内を目指すペースには足りていない。

「膨大なコストがかかってもいいからやれ」という話になるなら、ほとんどの人にとってこの話は受け入れられないだろう。

おそらく、気候変動の科学を信用しない人たちのある部分には、この結論が受け入れられないので、前提が間違っていると思いたい、という心理が働いているのではないか。

ビジョンを共有してイノベーションを起こす

しかし、疑うべき前提は気候変動の科学の部分ではなく、「現状の社会経済システムと現状で見通せる技術を前提にする限り」という部分だろう。30年前に現在のインターネット社会が見通せていなかったのと同様に、30年後には社会にも技術にも現時点で見通せないさまざまな変化が起きているかもしれない。そして、そのような変化を作り出そうとするのがいわゆる「イノベーション」だ。

ものすごく単純化していえば、たとえば石炭よりも安く発電できる「太陽光パネル+蓄電池」ができたとしたら、「脱化石燃料」は放っておいても起きる。誰にも頼まれなくても、世界中の人が石炭を使うのをやめて「太陽光パネル+蓄電池」を使うようになるからだ。そのとき、技術だけでなく、それを受け入れる社会も(たとえば地域分散エネルギー社会のような形に)大きく変貌するかもしれない。

そう考えると、「脱化石燃料」は一気にイメージしやすくなってくる。実際に起きることはもっと複雑だとしても、これに近いことは起きてもおかしくないのではないか。そして、そんなイノベーションを自分が起こしてやろうと思ってベンチャーをやっている連中がアメリカなんかにはごろごろいる。その代表的な一人であるテスラモーターズCEOのイーロン・マスクは、20年以内にエネルギーの主力は太陽光になることに強い自信を持っていると発言している

実際に「脱化石燃料」が進むと、化石燃料企業は困るだろう。しかし、デジカメの普及による「脱フィルム」でフィルム会社が変わらざるを得なかったのと同じように、彼らも変わらざるを得ない。その変化を社会全体で後押しすることも大事だろう。

こうして、社会の中で少しずつ多くの人たちが「脱化石燃料は、必要だし、可能だし、みんなにとって望ましい」というビジョンを持つようになると、その割合がやがてある臨界点を超えたところで、社会は雪崩を打ったように一気にその方向に動くのかもしれない。

「石器時代が終わったのは、石が無くなったからではない」というのは、サウジアラビアで石油相を務めたシェイク・ザキ・ヤマニ氏の言葉だそうだ。

青銅器や鉄器といった石器よりもっとよい道具が発明されて、石器時代は終わった。同じように、化石燃料よりももっとよいエネルギー、いや、化石燃料社会よりももっとよいエネルギー社会を迎えることで、化石燃料を使い尽くす前に、化石燃料時代が終わるかもしれない。

それを目指すことが「+2℃」目標の本当の意味であり、このことこそが、COP21を機会に社会において本当に議論されるべきテーマであると筆者は考える。

東京大学 未来ビジョン研究センター 教授

1970年神奈川県生まれ。1997年に東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程にて博士号(学術)を取得後、国立環境研究所に勤務。同研究所 気候変動リスク評価研究室長、地球システム領域 副領域長等を経て、2022年より現職。東京大学大学院 総合文化研究科で学生指導も行う。専門は気候科学。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第5次および第6次評価報告書 主執筆者。著書に「異常気象と人類の選択」「地球温暖化の予測は『正しい』か?」、共著書に「地球温暖化はどれくらい『怖い』か?」、監修に「最近、地球が暑くてクマってます。」等。記事やコメントは個人の見解であり、所属組織を代表するものではありません。

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