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「愛の言葉」を巧みに伝える遺伝子とは

石田雅彦科学ジャーナリスト
photo by Masahiko Ishida

多くの生物で共通の言語に関する遺伝子

人間同士のコミュニケーションで重要なものの一つに、愛の表現があります。「わたしはあなたが好きだ」と好意を表すこと。そして、不安の解消、つまり「オレはお前の敵じゃないよ味方だよ」という歩み寄りの気持ちを何らかの手段で表明することです。

こういうときの手段で、人間は言葉を使うことが多い。言葉を歌や曲にして伝えたりする。まさに、詩、歌は、愛、Loveなんですね。

音楽のリズムやメロディーは、人間の情動へ直接、働きかけますが、同時に音楽で表現されている物語や主張は言葉、つまり歌詞によって伝達されます。根源的な感情への働きかけ、そして人間関係の根底にある愛と歩み寄りのメッセージ、共感がつめこまれているコミュニケーション手段が音楽。音楽には、リズムやメロディーのノンバーバルな表現と、言葉や歌詞といったバーバルな伝達方法がある。

こうした共感のコミュニケーションにも、遺伝子が関係しています。人間では、コミュニケーションをとるための遺伝子(FOXP2)があることが知られています。

この遺伝子は第七染色体にありますが、難読症という言語障害の遺伝疾患の家系を調べたことがきっかけで見つかりました(*1、英国オックスフォード大学の研究者らによる論文)。最初、この遺伝子は人間特有のもので、人間の言語の能力に関係してるんじゃないか、と話題になったんですが、調べてみたらこの遺伝子をもってるのは人間だけじゃなかった。

ワニなどの爬虫類にも、同じ遺伝子があります。さえずるのが得意な鳥類にもあるし、コウモリは超音波探を出して飛ぶときに使っている(*2、コウモリの遺伝子は中国上海にある華東師範大学華東師範大学:East China Normal University、ECNUの研究者らによる論文)。よほど生物にとって大事な機能だったらしく、この遺伝子はかなり昔から備わっていたようです。

チンパンジーにもFOXP2遺伝子はあります。興味深いのは、人間とチンパンジーとでこの遺伝子の塩基が二つだけ違っていることです。ちなみに、人間とマウスとでは4つ違います。

このことから、FOXP2遺伝子は、人間が言語を使う能力に関係してるんじゃないか、言葉を話せないチンパンジーと遺伝子の違いを比べてみれば、人間の言語に何が関係してるかわかるんじゃないか、と想像するのも不思議ではありません。そう主張する研究者たちは、このFOXP2遺伝子によって、人間が言葉を話すことのできる喉の構造を獲得したと考えています(*3、英国オックスフォード大学の研究者ら、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所:Max Planck Institute for Evolutionary Anthropologyの研究者ら、米国テキサス大学サウスウェスタンメディカルセンターの研究者ら)。

確かに、人間特有の発話メカニズムは、ほかの動物にはないものです。また、人間の音声コミュニケーションは、その複雑な声帯の構造や機能によって生まれているのも事実でしょう。

人間とチンパンジーの共通祖先が分かれたのは、今から約500万年前(諸説あり)と言われています。人間が今と同じような言語機能を獲得したのはいつからかはっきりしてませんが、人間が数10万年から数万年という時間で高度な言語能力を獲得したことについて不思議がる人もいます。

これも人間のコミュニケーション能力が、ほかの生物と違う、という見方です。何か遺伝子の特別な作用がはたらかなければ、こんなに短期間に声帯などの構造を変えられるはずがない、というわけです。

それとは逆に、FOXP2遺伝子の遺伝子配列の違いは、言語の能力と無関係と考える研究者もいます(*4、米国ミシガン大学の研究者らによる論文)。人間とチンパンジーとのアミノ酸2つの差は、ほかの生物同士の違いと大差ありませんし、イルカやクジラ、鳥類といったコミュニケーションを学習するほかの生物と比べても、塩基の変異には共通点がないから、というわけです。

確かに、人間の複雑な発声器官やメカニズムを作ることとFOXP2遺伝子が何らかの影響を与えているとの間に、確かな関連はまだ見つかっていません。

一方、鳥が鳴くときの方法や鳴き声を学習するときの法則から、人間がどうやって言葉を習得したか探るほうがいいんじゃないか、と言う研究者もいます(*5、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所:Max Planck Institute for Evolutionary Anthropologyの研究者らによる論文)。

人間の言語だけが特殊じゃない

よく考えてみれば、別に人間の言語がほかの生物のコミュニケーション手段より優れてるわけじゃありません。人間だけが特別な生物というのは思い上がりだ、という人もいます。

チンパンジーは、人間みたいに面倒な言葉を使ってコミュニケーションする必要がないから、しゃべらないのかもしれません。

もし仮に、この遺伝子のせいで人間が言葉を話すことができたとしても、それはほかの生物と同じように特徴的な能力の一つというだけです。人間は、コウモリがエコーロケーションで使っている超音波も出せなければ、イルカのカチカチいうクリック音も、クジラが出す何百キロも届く低周波音も出せませんね。

バンドウイルカは、お互いを識別できる音声シグナルを持ち、名前を呼び合ったり、エサを見つけると互いに教え合ったりします(*6、英国セントアンドリュース大学の研究者らによる論文)。ムクドリは、人間の使う文法のような複雑な鳴き方を学習します(*7、米国カリフォルニア大学サンディエゴ校の研究者らによる論文)。言語的なコミュニケーションを学習して使っているのは、人間だけじゃないんです。

短期間に声帯などの複雑な構造を獲得したという点も、キリンの首はだいたい600万年かけて4メートルも長くなったんだし、ゾウの鼻だって数百万年で長く伸びたと考えられている。あんなに姿形が変わるのも数100万年あれば可能というわけで、人間が短くても数10万年で喉の構造を変えることができたとしても不思議ではありません。

進化によって外見や機能が大きく変わることで有名な例では、英国の工業地帯にいたオオシモフリエダシャクっていう蛾の一種が、約50年で体色をガラリと変えてしまったことが知られています。工業化による大気汚染の影響があり、ほんの半世紀で白っぽかった色が黒っぽく進化したんですね。

これらはどれも突然変異による自然選択(自然淘汰)ですが、数十万年や数万年というオーダーは、生物の形態や機能をドラスティックに変えられるだけの充分な時間の長さではないでしょうか。だから、言語の能力について、人間とチンパンジーとで大きな違いが起きても不思議じゃない。発生器官についても、オウムやインコがあんなに人間の言葉を話せるんです。人間だけに特殊な器官というわけでもなさそうじゃありませんか。

人間の音声コミュニケーションを生物に一般的なものとして考えれば、いろいろと見えてくるものがあります。たとえば、人間の特殊な言語の獲得には、自然選択よりもっと強い淘汰圧、たとえば性淘汰、性選択などがかかっていたのかもしれない。

今のところ、複雑な歌を歌うのはジュウシマツなどの鳥類とザトウクジラなどのクジラ類、そして人間だけだと考えられています。ジュウシマツはオスがメスに歌を歌い、メスは歌のうまいオスを選んで交尾します。クジラの歌もオスがメスへ求愛するために歌うと考えられています。

どちらも性選択ですが、ジュウシマツの場合、歌を歌って目立ち、天敵に捕食されやすいのにもかかわらず生き残っていることを、どうもメスにアピールしているらしい。

一夫一婦制と関係する遺伝子か?

では、人間の場合はどうだったんでしょう。

人間が森から出て天敵の多いサバンナで暮らし始めたころ、複雑な言語によるコミュニケーションがないとおそらく生き残っていけませんでした。

なぜなら、人間の祖先は足が速いとか鋭い牙や爪を持っているとか、身を守る手段はほかの動物に比べるとほとんどありません。彼らが生き残るためには、群で行動し、集団で狩りをするなどしなければならず、そのために音声コミュニケーションが発達した、と考える研究者もいます。

少ない資源をめぐって、ときに仲間同士が争い、ときには共食いをしていたのかもしれません。そうした争いを避け、仲間から食べられないようにし、相互に理解するためにも言語を発達させざるを得なかった、とも考えられる。

性淘汰や性選択から言えば、女性がウソをついたり男性がそのウソを見破ったりするために、人間は愛を複雑な言葉で表現する必要に迫られた、と想像するのも可能です。人間の女性は発情期を隠します。自分自身でも生理の周期は不安定なので、正確にはわかりません。なぜ女性が発情期を隠すのか。この理由は、一夫一婦のつがいを形成して子育てをするためと考えられています。

基本的に女性は「強い遺伝子」を持つ男性に惹かれますが、そうしたオスは数が少ない上、必ずしも子育てに向いているとは限らない。だから、女性は優秀な遺伝子の男性を選ぶのと同時に、子育てに協力的な父親を求めます。もちろん、その二つが同じ男性なら言うことないんですが、世の中はなかなかうまくいかない。

ですから、女性が子育てのパートナーとして選ぶのは、優秀な遺伝子を持つ強い男性ではない場合もけっこうあります。

また、つがいを形成する生物を共通して観察した結果、一定の割合で「不倫」の子どもが生まれるケースがある。もしも女性が男性パートナーの目を盗んで不倫をしていたら、生まれた子どもの父親がいったいパートナーか不倫相手かは母親である女性にもわかりません。

不倫の疑いがある以上、男性は女性への不安をぬぐいきれないので、女性のウソを見破ろうとします。女性は、男性パートナーに子育てを協力させるために発情期を隠し、パートナーの精子によって生まれた子どもと思わせなければならない。

人間特有の言語が発達したのは、ウソをつき、ウソを暴くためだったというわけです。

実際、人間と同じ霊長類のテナガザルは、歌を歌い、音声による高度なコミュニケーションをすることが知られています(*8、ドイツのハノーヴァー獣医大学の研究者らによる論文)。興味深いことに、テナガザルも一夫一婦で子育てをし、人間の女性と同じようにメスは自分の発情期をオスに隠す。

一夫一婦制のテナガザルも歌を歌う、というわけで、音声による高度なコミュニケーション能力が発達した理由は、男と女の愛を表現し、パートナー同士の不安を解消するためだったのではないか、という考えを示唆しているようでもあります。人間の音楽の歌詞のテーマに恋愛が多いのも、こうした理由からかもしれません。

いずれにせよ、コミュニケーションのためのFOXP2遺伝子を持つ生物は、どうやらそれぞれ特徴的な方法で情報をやり取りしているようです。人間だけが特別ではありませんが、一夫一婦のつがいを形成する生物には、複雑な言語的コミュニケーションの必要性から、その機能がすでに遺伝子として備わっていたFOXP2遺伝子を利用して進化したのかもしれません。

ところで、キンカチョウ(Zebra Finch)というスズメ類を使った実験では、ひょっとすると文化も遺伝子が創っているのかもしれないことがわかりました(*9、米国ニューヨーク市立大学の研究者らによる論文)。野生型のさえずりを一度も聞いたことのないキンカチョウの集団の歌は、3世代から4世代を経ると誰に教えられたのでもなく自然に野生型の歌に近づいていくんだそうです。

キンカチョウの歌という文化が、もともと遺伝子にプログラムされていた、というわけで、ならば言語を含めた人間の文化も、果たして後天的な学習の結果かどうか、よくわからないということになります。FOXP2というコミュニケーションの遺伝子は、その中にあらかじめ人間が言語能力を獲得できる機能をもっているのかもしれません。

(*1:Cecilia S.L. Lai, Simon E. Fisher, Jane A. Hurst, Elaine R. Levy, Shirley Hodgson, Margaret Fox, Stephen Jeremiah, Susan Povey, D. Curtis Jamison, Eric D. Green, Faraneh Vargha-Khadem and Anthony P. Monaco, "The SPCH1 Region on Human 7q31: Genomic Characterization of the Critical Interval and Localization of Translocations Associated with Speech and Language Disorder", The American Journal of Human Genetics, Volume 67, Issue 2, 357-368, 1 August 2000

(*2:Gang Li, Jinhong Wang, Stephen J. Rossiter, Gareth Jones, Shuyi Zhang, "Accelerated FoxP2 Evolution in Echolocating Bats", 2007. PLoS ONE 2(9): e900. doi:10.1371/journal.pone.0000900

(*3:C S L Lai, S E Fisher, J A Hurst, F Vargha-Khadem, A P Monaco, "A novel forkhead-domain gene is mutated in a severe speech and language disorder", Nature 2001, Volume: 413, Issue: 6855, Publisher: Nature Publishing Group, Pages: 519-523

Wolfgang Enard, Molly Przeworski, Simon E. Fisher, Cecilia S. L. Lai, Victor Wiebe, Takashi Kitano, Anthony P. Monaco & Svante Paabo, "Molecular evolution of FOXP2, a gene involved in speech and language", Nature 418, 869-872 (22 August 2002)

Genevieve Konopka, Jamee M. Bomar, Kellen Winden, Giovanni Coppola, Zophonias O. Jonsson, Fuying Gao, Sophia Peng, Todd M. Preuss, James A. Wohlschlegel & Daniel H. Geschwind, "Human-specific transcriptional regulation of CNS development genes by FOXP2", Nature 462, 213-217 (12 November 2009)

(*4:D. M. Webb and J. Zhang, "FoxP2 in Song-Learning Birds and Vocal-Learning Mammals", Journal of Heredity Volume96, Issue3Pp. 212-216, December 23, 2004

(*5:Constance Scharff and Sebastian Haesler, "An evolutionary perspective on FoxP2: strictly for the birds?", Neurobiology of behaviour, 2005, 15:694-703

(*6:Janik VM., "Whistle matching in wild bottlenose dolphins (Tursiops truncatus)", Science. 2000 Aug 25;289(5483):1355-7

(*7:Timothy Q. Gentner, Kimberly M. Fenn, Daniel Margoliash & Howard C. Nusbaum, "Recursive syntactic pattern learning by songbirds", Nature 440, 1204-1207 (27 April 2006)

(*8:Geissmann, T., "Duet-splitting and the evolution of gibbon songs.", 2002. Biological Review, 77:57-76.

(*9:Olga Feher, Haibin Wang, Sigal Saar, Partha P. Mitra & Ofer Tchernichovski, "De novo establishment of wild-type song culture in the zebra finch", Nature 459, 564-568 (28 May 2009)

科学ジャーナリスト

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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