日清戦争の行方を決めた121年前の黄海海戦時の海上気象観測と東郷平八郎
明治23年(1890)からの商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通のコレクションは、「神戸コレクション」と呼ばれ、地球温暖化の研究に役立っています。この神戸コレクションには、日本海軍の艦艇も含まれており、貴重な資料となっています。ただ、平時ではほとんど日本近海にいますので外洋の観測が少なく、また、戦争中は外洋に出ていますが、戦争で船が沈められればそれまでの記録も一緒に沈んでしまいます。このため、外洋観測は商船よりかなり少ないのですが、貴重な資料には変わりがありません。
清国海軍に対抗するため「松島」と「浪速」
西南の役などの内乱に終止符が打たれ、国力増強に力を入れだした日本政府は海外への進出をはじめ、台湾や朝鮮などをめぐって清国と対立します。当時、清国は明治18年(1885年)にドイツで作られた東洋一の2隻の巨大戦艦を含む海軍を持っていました。巨大戦艦は、25cmの分厚い装甲と30cm砲という巨砲を装備した「定遠」と「鎮遠」です。
これに対抗するにしても、予算のない日本は、まず巨大戦艦の大砲よりも少しだけ人きい32cmの大砲を1つだけ積んだ中型の巡洋艦3隻を作っています。明治24~25年にフランスで「厳島」と「松島」、明治27年に横須賀工廠で「橋立」が作られていますが、名前は日本三景からきています。国家予算だけでなく、皇室をはじめ多くの国民からの寄付が使われいたこともあり、国民の間では、三景艦として親しまれていました。
そして、小さいが速射ができる大砲を多く備えた「浪速」など、高速で動ける小型の巡洋艦を増やして対抗しようと考えていました。
巡洋艦「浪速」の艦長となった東郷平八郎
明治19年にイギリスで作られた巡洋艦「浪速」は、日本海軍初の近代的な巡洋艦であるとともに、世界でも最新鋭の巡洋艦でした。というのは、当時のイギリスは、新しい枝術については外国からの発注艦で試してみるという方針だったためです。
明治21年12月、イギリスに留学し、国際法に詳しい東郷平八郎海軍大佐が艦長になり、邦人保護のためにハワイへ派遣されるなど、国際法がらみの行動をとります。図1は、「浪速」が日清戦争直前にハワイへ派遣された時のものですが、艦長のサイン欄には、「東郷平八郎」か「東郷平八郎 H Togo」と記され、中には東郷の丸印がついているものもあります。
日清戦争における9月17日の黄海海戦
明治27年(1894年)8月1日、日清戦争が始まります。「松島」は連合艦隊司令長官伊東祐亨中将が乗り組み、艦隊の旗艦となって出撃しました。その一ヶ月半後の9月17日、黄海北部で清国艦隊との間で黄海海戦を戦っています。
5時間の海戦で、日本海軍は3隻を撃沈、清国が誇る戦艦の「定遠」と「鎮遠」は撃沈させることはできなかったものの大破で戦闘能力をなくさせています。黄海海戦の勝因は、「浪速」で代表される高速で動き回る船からの速射砲の威力でした。
一方、三景艦は、砲弾の発射に時間がかかるうえに、砲弾の発射時には船が大きく揺れて敵艦に砲弾が当たらないという欠陥が露わになっています。また、戦艦ほど装甲が厚くないので、「松島」は、「鎮遠」が放った一発の砲弾によって90名以上が死亡するという大きな被害がでています。
「松島」の被弾と「定遠はまだ沈みませんか」
「松島」が被弾したとき三浦虎二郎水兵が重傷の苦しい息の中で副艦長の向山頂吉少佐に「定遠はまだ沈みませんか」と訪ねたことから、「勇敢なる水兵(作詞 佐々水信綱、作曲 奥野義)」という歌が作られ、大ヒットしています。
神戸コレクションにある「松島」の9月17日10時の観測(図2)は、南の風、風力0~1、気圧は30.07インチ水銀柱(1019hPa)、気温は華氏75.5度(セッシ24度)、雲量2、波浪は南で0~1mなどであり、「勇敢なる水兵」の歌詞にある「煙も見えず雲もなく 風も起こらず浪立たず 鏡のごとき黄海は 曇り初めたり時の間に」のとおりです。
また、この日の雑記欄には、「正午太狐山沖ニ至リ清国艦隊ト大海戦」という記載(図3)がありますが、この日の14時以降、9月26日10時の佐世保港沖の観測まで記録がありません。観測どころではなかったものと思われます。
なお、黄海海戦時の気象観測については、「厳島」と「橋立」は残されていますが、「難波」は残されていません。
その後の三景艦
清国に対抗しようと背伸びをして作った三景艦は、日清戦争後すぐに第一線から退きます。
月日が流れ、日露戦争では、東郷平八郎が連合艦隊司令長官として戦艦「三笠」に乗船し、明治38年5月27~28日の日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊と戦い、世界海戦史上、まれにみる完全勝利をあげています。
戦争という不幸な歴史がありましたが、その過程で観測された気象観測記録は、人類共通の財産として後世に残されています。
図の出典:饒村曜(2010)、海洋気象台と神戸コレクション、成山堂書店。