設楽原の戦いで「軍事革命」といわれた、織田・徳川連合軍による「鉄砲の三段撃ち」はなかった
大河ドラマ「どうする家康」では、設楽原の戦いがメインだった。設楽原の戦いは織田・徳川連合軍による「鉄砲の三段撃ち」が行われたので、「軍事革命」と言われたが、実際はどうだったのか考えることにしよう。
天正3年(1575)5月21日、設楽原で織田・徳川連合軍と武田軍が戦った(設楽原の戦い)。勝利したのは織田・徳川連合軍であり、勝利の決め手は鉄砲の三段撃ちにあったといわれている。
鉄砲の三段撃ちとは、1千丁の鉄砲を持った射手が鉄砲を撃つと後ろに下がり、続けて後ろの射手と交代して撃つことである。これを何度も繰り返すのである。その根拠となったのは、小瀬甫庵の『信長記』であるが、史料的価値の低い創作物に過ぎない。
同史料には、「敵が一町(約109m)まで近づいても鉄砲を撃つな。間近に引き付けて(現代語訳)」としたうえで、「千挺ずつ(鉄砲を)放ちかけ、一段ずつ立替り立替り(鉄砲を)打(撃)たすべし」と書かれている。素直に読めば、先述のとおりになる。
現実的な問題として、信長軍が3千丁の鉄砲部隊を1千丁ずつ三部隊に分けて、代わる代わる撃てるような訓練をしていたのかという疑問が残る。織田方の将兵が兵農分離を遂げた武士専業だったとは言えず、日常的に軍事訓練をしていたのか疑わしい。
火縄銃は鉄砲やライフルなどと違い、火縄に着火してから発砲するので、タイムラグが生じる。専門的な訓練を受けていない射手の技量がばらばらのなかで、1千人が一斉に射撃をすることは困難だったに違いない。
また、1千人を2m間隔で配置すると、2kmの長さになる。当時は拡声器などもなかったので、指揮者が「撃て」と命じたところで、端から端まで射撃の合図が伝わらなかっただろう。
そこで、近年では甫庵の『信長記』の「段」とは部隊のことで、鉄砲衆だけの三個の部隊を3ヵ所に配置したという説も提起された。しかし、本多隆成氏が指摘するように、史料的な価値の低い甫庵の『信長記』を読み替えても意味がないといえよう。
『信長公記』によると、鉄砲隊は各部将の配下から集められたもので、1千人の鉄砲隊に対して、5人の指揮者がついたという。つまり、この1千人の鉄砲隊が迎撃態勢を取り、敵を射程圏内に収めたときに射撃し、敵の状況に応じて代わる代わる撃ったというのが現実的だったと考えられる。
主要参考文献
藤本正行『長篠の戦い 信長の勝因・勝頼の敗因』(洋泉社新書y、2010年)
藤本正行『再検証 長篠の戦い 「合戦論争」の批判に答える』(洋泉社、2015年)
本多隆成『徳川家康の決断』(中公新書、2022年)