8月25日は羽田空港誕生の日 最初の乗客はスズムシとマツムシ 90年の歴史と航空気象
航空機の黎明期
明治36年(1903年)12月17日、アメリカのノースカロライナ州のキティホークにある砂丘で、ライト兄弟が世界で初の有人動力飛行に成功しています。
これまでの空を飛ぶという試みは、単に浮かび上がることしかできなかったのに対し、浮かび上がったあとに飛行を自在にコントロールできるという意味で、初めての実用化した空飛ぶ乗り物、飛行機の誕生です。
このニュースは、世界中の冒険家たちを熱狂させ、日本でも明治末になると、東京湾の遠浅海岸や埋め立て地を利用して飛行機の発着を試みる人たちが誕生します。
明治45年(1912年)5月に千葉県稲毛の砂浜に、奈良原三次が飛行機発着場と簡易格納庫を建設したのが民間航空の始まりですが、稲毛の他にも、津田沼、船橋、大井などの砂浜から車輪又はそりがついた陸上機が飛び立っていました。
また、大正5年(1916年)に日本飛行学校が羽田町鈴木新田の昔の穴守稲荷近く(現在の国際線ターミナル建設地付近)に建設され、パイロットの養成を始めています。
さらに、日本陸軍は、軍事目的のため、大正11年(1922年)に東京立川の基地内に飛行場を開設します。
しかし、郵便物の輸送など、民間利用の要望から、翌年3月にできた逓信省航空局に、その業務の一部を移管します。
ここから、民間目的の航空行政が始まったともいえますが、実質上は陸軍の助けを借りていました。
しかし、飛行機の性能が向上し、民間航空機の需要が拡大してくると、陸軍施設に間借りする形ではいろいろな問題点がでてきました。
そこで逓信省航空局では新しい首都飛行場の建設を計画します。
昭和4年(1929年)4月には、立川にある陸軍飛行場を、民間でも公共用に使用するために東京飛行場と呼び、民間飛行場としての準備を進めます。
そして、東京府羽田町鈴木新田の北側の埋め立て地16万坪(48ヘクタール)を飛島組(現在の飛島建設)の飛島文吉から買収し、3年計画で飛行場を建設します。
羽田が選定された理由に、水上機の離着陸が可能な海老取川に面しているということがあります。
海老取川はある程度の深さがあり、多摩川という大河川の派川であるため水量が一定であり、東京湾からの直接の波が鈴木新田等によって入ってこないため波が高くならないなど、水上機の離着陸に最適と考えられた川でした。
羽田という地名
多摩川は下流に大量の土砂を運び、遠浅の海岸を作っていました。その一番海側にあった羽田村は、豊富な海産物で生計をたてると同時に、海岸を埋めたてて沖合に延びていました。
現在は多摩川が東京都と神奈川県の境界ですが、羽田村と太子河原村(現在の川崎市)の境界は、八幡澪で、多摩川河口付近は両岸が羽田村でした(図1)。
しかし、明治43年(1910年)の大水害をきっかけに多摩川の大改修が行われ、川幅が広く、まっすぐとなり、多摩川右岸にあった羽田町(明治40年より町政)の土地は、明治45年(1912年)の「東京府神奈川県境変更に関する法律」により神奈川県に編入となります。
なお、羽田という地名ですが、羽田史誌などには有力な説がいくつかありますが、その一つに、この地方が海老取川を境に二分され、その形を海上から見ると羽を広げたように見えるというものがあります。
鈴木新田・御台場とその東から南東に広がる干潟、三本葦・末広島とその南から南西に広がる干潟は羽を広げたように見えなくもありません(図2)。
【昭和6年(1931年)の新聞の見出し】
1月20日の中外商業新聞(現在の日本経済新聞)
初夏五月には開かれる国際飛行場 規模壮大な工事着々と進む羽田の埋立地に
軒を連ねて民間の格納庫も建つ
更に来年度は水陸ともに完備したものにする
5月5日の東京朝日新聞(現在の朝日新聞)
報知日米号けさ壮途につく 日本晴れの五月空に恵まれ勇躍の吉原飛行士
7月6日の東京朝日新聞
羽田国際空港 明治節に開場式 八月中旬から使用
7月26日の東京朝日新聞
立川飛行場 来月下旬には羽田へ引っ越し
8月18日の東京朝日新聞
羽田国際飛行場 二十五日から開く 今朝から引っ越し
羽田空港の誕生
昭和6年(1931年)8月25日、立川にあった東京飛行場は、羽田、飛島と飛行場にふさわしい名前の地へ移転します。
羽田空港の誕生です。
当初は、買収した16万坪のうち、6万坪を使った、300メートル滑走路が一本の飛行場でしたが、東洋一の飛行場と言われました。
一番機は、中国・大連まで飛んだ6人乗りのスーパー・ユニバーサル型旅客機でしたが、操縦士と機関士以外で乗ったのは、約6000匹のスズムシとマツムシでした。
大連にあった「東京カフェ」に日本の秋の声を届けるためです。
生き物を少しでも早く届けようとする試みでしたが、当時の飛行機の利用は主に郵便物の運搬で、人々の移動手段としては遠い存在でした。
羽田空港には税関、検疫所、航空無線電話局ができ、中央気象台も羽田分室(現在の東京航空地方気象台)をおいて気象観測と情報提供を開始します。
羽田空港の歴史が始まったときから、気象庁の航空機の利用に特化した情報提供の歴史が始まっています。
羽田空港の拡張とオリンピック
羽田空港は、その後も整備が進められ、昭和11年(1936年)には買収した16万坪の整地が終わります。
この頃になると、飛行機の発達や航空需要の伸びから、南に7万坪を埋め立てるなどして23万坪の飛行場を建設する計画がつくられます。
しかし、昭和11年(1936年)7月に4年後の東京オリンピック開催が決まると、開催国にふさわしい空港ということで拡張計画が大幅に変更になります。
その後、東京オリンピックは開催返上となりますが、空港建設のほうは順調に進み、昭和14年(1939年)には800メートル滑走路を十字型に配置した近代的な空港が完成します(図3)。
なお、拡張計画段階では、水上機のための施設も考えられていましたが、この頃になると、各地に飛行場ができたことなどから、運動性能の落ちる水上機は特別の目的以外には使われなくなりますので、事実上、陸上機専用となる空港となりました。
太平洋戦争が終わると、連合軍は羽田空港を接収し、海老取川以南の工場・民家に対して「48時間以内に退去せよ」との命令を出します。
こうして、島のほとんどが空港になるという大拡張が行われ、2100メートルと1650メートルの2本滑走路を持つ257ヘクタール(79万坪)の空港に変わります。
サンフランシスコ講和条約によって、昭和28年(1953年)に日本が独立すると、羽田空港は日本側に返されますが、戦後の復興が進むについて、民間航空機の需要が増えてきました。
そこに、昭和39年(1964年)10月に東京オリンピック開催が決まります。
そこで、東京オリンピック開催にあわせて機能強化が図られます。
昭和36年(1961年)には沖合への埋め立てが行われ、昭和39年(1964年)2月に3本目の3150メートル滑走路が運用開始となります。
同年8月には首都高速道路1号線(羽田線)が開通し、9月には浜松町と羽田空港間の日本モノレールが開業しています。
現在の東京航空地方気象台
羽田空港の滑走路は長いこと3本でしたが、平成22年(2010年)10月に4本目の滑走路(D滑走路:2500メートル)ができます。
このD滑走路の東側は埋め立て地ですが、西側は多摩川の流れを妨げないように橋構造となっていますので、滑走路の下を多摩川の水が流れていることになります。
東京航空地方気象台は、羽田空港に各種の気象観測機器を配置していますが、特に風向風速計の多さが目立つと思います(図4)。
空港での風の観測は、滑走路の中でも飛行機が離陸で地面を離れる地点、あるいは、飛行機が着陸で地面に接地した地点の近くで行います。
そこが、安全運航に重要な地点であるからです。
飛行機は風向によって離陸(着陸)する向きを変えますので、1本の滑走路には、2か所の風向風速計が必要になります。
羽田空港は4本の滑走路があるので、各々の走路に2か所の計8か所の風向風速計が必要ということになりますが、交差しているA滑走路とB滑走路は1つの風向風速計が兼用できます。
このため、7か所に設置されているのですが、万が一の故障に備え、各々には正副2つの風向風速計があり、常時14台の風向風速計で観測が行われています。
航空機の安全のためには、これだけの観測が必要なのです。
なお、気象庁ホームページなどで表示されているのは、C滑走路の北側にある風向風速計の観測値です。
タイトル画像、図4の出典:気象庁東京航空地方気象台ホームページ。
図1、図2、図3の出典:筆者作成。