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武田信玄が我が子の義信を殺害した深い理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、家康が遠江侵攻を目論んでいた。その前提となる、武田信玄が我が子の義信を殺害した理由について、考えることにしよう。

 天文21年(1552)12月、武田義信は甲駿相三国同盟(今川、北条、武田の三家の同盟)の一環として、今川義元の娘を妻として迎えたが、桶狭間合戦における義元の戦死は暗い影を落とした。

 第四次川中島合戦で、武田軍が上杉軍の奇襲攻撃を受けた際、信玄は徹底抗戦を主張したが、義信は撤退を提案した。戦略をめぐって親子の意見は相違し、その関係に少しずつ綻びが生じていたようだ。こうした状況下において、武田義信謀叛事件が勃発した。

 永禄8年(1565)10月、義信は飯富虎昌らと共謀し、信玄に謀叛を起こす計画を立てた。しかし、この計画は、虎昌の弟昌景(山県昌景)の密告によって、信玄の知るところとなった。

 事件後、虎昌は切腹を命じられ、義信直属の家臣は国外追放処分となった。こうして義信の家臣団は解体し、孤立無援の状況に陥った。肝心の義信は、甲府にある東光寺に幽閉されたが、なぜ謀叛を画策したのだろうか。

 理由については、信玄が西進策(信濃・飛騨への出兵)に路線を転換したのに対し、義信は北進策にこだわっていたのではないか、という指摘がある。

 たしかに、信玄は西進を企図したのか、子の勝頼を信濃国高遠城主とし、諏訪氏の養子に送り込んだ。北の難敵である上杉謙信よりも、中小領主の多い信濃・飛騨方面が攻略しやすかったのかもしれない。事実、信玄の作戦は目論み通りに進む。

 それだけではない。永禄8年(1565)9月、義信の異母弟・勝頼と織田信長の養女との婚姻が決定した。信長は義信の義父の義元を殺した張本人なので、非常に困惑したに違いない。

 当時、信長は美濃斎藤氏と交戦しており、西進する武田氏と友好関係を結ぶことを得策と考えた。信玄は凋落の様相を見せている今川氏に見切りをつけ、逆に勢いのある織田氏との連携が有利になると考えたのだろう。

 義信は、勝頼が当主の座に就く可能性も出てきたので焦ったに違いない。同じ頃に謀反が画策されたのだから、義信の気持ちを推し量ることができる。義信の謀叛から1ヵ月後の11月、勝頼の婚儀の式は高遠城で執り行われた。

 2年後の永禄10年(1567)8月、義信は信玄から自害を命じられた。自害直前、信玄は家臣に忠誠を誓う血判の起請文を提出させた。信玄は義信を自害に追い込むことで、自らの権力を家臣に誇示し、磐石の体制を築いたのだ。

 義信の死後、嶺松院は今川氏のもとに返された。武田氏は、今川氏を見限ったのである。これにより、たださえ弱体化していた今川氏は、ますます厳しい状況に追い込まれたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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