バイカル湖の藻屑と消えた バイカル湖の大シベリア冬季行軍
ロシア革命は数ある革命の中でもとりわけ流血の多かった革命として知られています。
そんな中でもとりわけ犠牲者を多く出したのは、バイカル湖の大シベリア冬季行軍です。
この記事ではバイカル湖の大シベリア冬季行軍の悲劇の軌跡について紹介していきます。
バイカル湖の悲劇
1920年1月21日、イルクーツクでアレクサンドル・コルチャーク提督が、チェコスロバキア軍によってSR-メンシェビキ政治センターに引き渡されました。
この出来事は白軍に大きな衝撃を与え、翌日には白軍が赤軍とパルチザンをニジノイディンスクから追い出すも、戦局は悪化していったのです。
1月23日、瀕死のカッペル将軍が指揮する軍参謀会議にて、イルクーツクを奪還しコルチャークを救出することが決定されました。
ボリシェヴィキに対抗する新たな戦線をトランスバイカリアに築くため、白軍は1月24日にイルクーツクへの攻勢を開始したのです。
しかし、1月26日、カッペル将軍はウタイ鉄道の側線で亡くなり、指揮権はヴォイチェホフスキ将軍に引き継がれました。
彼らはカッペルの遺体を携えながら作戦を続行しましたが、戦力の消耗が激しく、軍の先行きは不透明であったのです。
赤軍はイルクーツクからジーマ駅に部隊を派遣し、白軍を阻止しようとしましたが、1月29日にはヴォイチェホフスキ率いる第2軍が激しい戦闘の末にジーマを奪取しました。
しかし、白軍には戦闘準備が整った部隊が少なく、数えたところ戦闘に投入できる兵士は6000人程度しかいないことが判明したのです。
ロシア軍のイルクーツクへの進軍は遅れ、白軍がコルチャークを解放することを恐れたレーニンは、1920年2月7日にコルチャークの処刑を承認しました。
この知らせを受けたヴォイチェホフスキ将軍はイルクーツクへの攻撃を断念したのです。
馬の不足により、物資を奪取する希望もなく、白軍はイルクーツクを迂回してボリショエ・ゴロウストノエ村へ向かい、そこからバイカル湖を横断してミソヴァヤ駅を目指すことにしました。
2月11日、イジェフスク師団がバイカル湖の氷を渡り始めました。
なお先述したような苦難もあり、出発時には125万人を誇っていた白軍はこの時点で25万人にまで減っていたのです。
地元のガイドはこの困難なルートを拒否しましたが、白軍は数日間かけて氷上を渡り、最も過酷な行軍の一つを遂行しました。
しかし渡っている最中に北極圏の風が湖を遮るものなく吹くと、軍の多くとその家族は凍死したのです。
彼らの遺体は、1919年から1920年にかけての冬の間、一種の絵のように湖で凍ったままでした。
春の到来とともに、凍った死体とそのすべての所有物は湖の底に藻屑と消えたのです。
それでも3万人近くがこの命懸けの横断に成功し、何とか命をつなぎました。
彼らはその後も約600キロの行軍を続け、1920年3月初旬に目的地に着きました。
生き残った人々は戦闘準備を整え、再編成され、次の戦いに備えることとなったのです。