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【深読み「鎌倉殿の13人」】吉野山で愛する源義経と離れ離れになった静御前

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
静御前之像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第20回では、源頼朝に追われた源義経の逃避行を描いていた。吉野山で源義経と静御前が離れ離れになったが、その点を詳しく掘り下げてみよう。

■追われた源義経

 文治元年(1185)11月、源義経は兄の頼朝に兵を挙げたものの、敵わないことを悟り、京都から出奔した。その際、常に義経の傍を離れなかったのが、白拍子で愛人の静御前だった。

 義経らは大和国宇陀(奈良県宇陀市)に潜伏していたが、これを嗅ぎつけた北条時政が襲撃するとの風聞が流れた。そこで、同年12月14日、義経らは吉野山(奈良県吉野町)へ逃げ込んだ。以上は『義経記』の記述であり、『吾妻鏡』では日付が異なっている。

 その後、吉野山に義経が逃げ込んだという情報が山中に伝わると、探索した僧侶が静御前を捕縛した。僧侶が静御前に対し、義経の行方について尋問すると、次のように答えたという。

 義経は山伏の姿に身をやつし、静御前に金銀を与え別れた。その後、静御前は従者とともに京都に戻ろうとしたが、従者は金銀を強奪し、静御前を吉野山に置き去りにしたというのである。

 尋問を終えた静御前は、結局、頼朝らが待つ鎌倉へと連れて行かれたのである。一方、吉野山を出た義経は、多武峰(奈良県桜井市)に向かったといわれている。

■鎌倉での静御前

 文治2年(1186)3月、静御前は母の磯禅師とともに鎌倉へ連行された。同年4月、鶴岡八幡宮で頼朝・政子夫妻、多数の御家人が臨席した中で、静御前は白拍子の舞を命じられ、次のように謡った。

・しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

・吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

 前者は、昔を今にできないのか(義経との関係を元に戻せないのか、の意)と詠じ、後者は義経を恋しいと謡ったものである。これを聞いた頼朝は、義経を追慕する内容だったので激怒したという。一方、妻の政子は静御前の気持ちを理解し、頼朝を宥めたといわれている。

 ところが、このとき静御前は、すでに義経の子を身ごもっていた。それを知った頼朝は、「女子なら生かすが、男子なら殺す」ことにしていた。男子ならのちの禍根となるので、あえて非情な決断をしたのである。

 同年閏7月、静御前は不幸にも男子を生んでしまった。安達清常は泣き叫ぶ静御前から、むりやり男子を奪い取ったという。そして、その男子は由比ガ浜で海に沈められ、殺されたのである。 

■むすび

 同年9月、静御前と母の磯禅師は、政子から重宝を渡され、そのまま京都に帰った。その後、静御前がどうなったのかは不明である。一方、義経は静御前の悲劇を知る由もなく、決死の思いで奥州平泉を目指したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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