砂川事件最高裁判決への米国関与・最高裁はうやむやにせず、検証を
砂川事件最高裁判決をめぐり、司法権の独立に反する動きが最高裁内部にあったと報道されている。
砂川事件は、昭和32年7月、東京の米軍軍・旧立川基地の拡張計画に反対したデモ隊が基地に立ち入り、学生ら7人が起訴された事件。
1審の東京地方裁判所は、7人全員に無罪を言い渡したが、その理由は「アメリカ軍の駐留は戦力の保持を禁じた憲法9条に違反する」という思いきったもの。
ところが、この9か月後に、最高裁判所大法廷は、憲法判断を回避する「統治行為論」を採用し、「日米安全保障条約はわが国の存立に関わる高度の政治性を有し、司法審査の対象外だ」として1審判決を取り消した。15人の最高裁判事全員一致の結論だったという。
ところが、この最高裁での審理が始まる前に、当時の田中耕太郎最高裁長官がアメリカの駐日主席公使と非公式に会談したという。
そして、「裁判官の意見が全員一致になるようにまとめ、世論を不安定にする少数意見を回避する」などと話したそうだ。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130408/k10013746941000.html
このニュースには私も驚いた。日本の裁判所は対米追従だ、とか、司法に政治の圧力がある、という話は、聞き飽きるくらい聞いてきた。
事実、最高裁は、憲法違反といえる事態があっても、そのことに目をつぶり憲法判断を回避する「司法消極主義」を採用してきた。
しかし、それは、保守的で波風を立てたくない日本の司法が政治の動きを「忖度」して、憲法違反と判断するのを回避してきたのであろう、と思ってきた。
まさか、最高裁での審理が始まる前に米国とあって、「こういう方向に判決をとりまとめます」などと約束していたとまでは思わなかった。
察するに、わざわざ最高裁からアメリカに自発的に出向く、というのは考えにくく、アメリカから呼び出されたのではないか。
「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条)と定められているとおり、司法権の独立は憲法の要請であり、憲法の番人たる司法にとって命ともいうべきものである。それが外国政府の圧力を直接に受けていた、というのは、到底見過ごせないことだ。
この判決で示された「統治行為論」は、この判決で初めて日本で採用された有名な法理論であり、私も真面目に勉強したことを覚えているが、このような外国政府の圧力のもとで結論に至った法理だったとは唖然とした。
さて、最高裁は、「事実関係を確認できないのでコメントすることはできない」というコメントを出したそうである。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130408/k10013747161000.html
しかし、それで終わりにするつもりだろうか。
随分昔の話とはいえ、日本の司法にとって由々しき事態である。
資料を取り寄せて、関係者から事情聴取をして、検証をすべきである。
第三者機関による検証が必要であろう。
これが事実でないなら調査して事実ではない、と調査結果を公表すべきだし、重要な最高裁判決を出す前に外国政府や日本政府の関係者と会って判決について相談をする慣習があったのだとすれば、それはいつまで続いて、いつ終わったのか(終わっていないのか--そうだとすれば恐ろしい)明らかにすべきであろう。
最高裁は、私の知る限り、そのあり方を反省・検証したことがない。
足利事件など、相次ぐ冤罪事件が発覚し、最高裁が誤判を見抜けず冤罪を救済しなかったという事実があるのに、検察のあり方などについては法務省のもとに検討委員会が出来たものの、最高裁のあり方については検証されなかった。冤罪事件に対する対応については、昨年末に最高裁司法研修所がDNA鑑定に関する研究報告書を公表してお茶を濁した。
今回も、検証もせず、うやむやにするつもりだろうか。
もし最高裁が検証をせず、世論も特に検証を求めず、国会の法務委員会等でも追及されないとすれば、それ自体深刻なことである。
なぜなら、最高裁としても、米国や政府の圧力を受けてきた、日本の司法はそんなものだ、と思っていることになる。世論も国会も、日本の司法はおそらくそんなものだろう、と考え、司法の独立性についてさしたる信頼を置いてこなかった、ということを示すことになってしまう。
憲法違反・司法の独立違反を最高裁自らおかしていたことは深刻であり、是非とも真摯な検証を望みたい。