松本人志氏の訴訟終結 これで問題を終わらせていいのか?
松本氏による5億5000万円訴訟の訴えの取り下げ
11月8日、松本人志氏が週刊文春に掲載された性加害報道を巡って発行元の文芸春秋と週刊文春の編集長を相手取り、5億5000万円の賠償を求めていた訴訟の訴えが取り下げられたことが公表されました。
松本氏は代理人を通じて「松本において、かつて女性らが参加する会合に出席しておりました。参加された女性の中で不快な思いをされたり、心を痛められた方々がいらっしゃったのであれば、率直にお詫び申し上げます。 」などとコメントしています。
週刊文春側は、「本日お知らせした訴訟に関しましては、原告代理人から、心を痛められた方々に対するお詫びを公表したいとの連絡があり、女性らと協議のうえ、被告として取下げに同意することにしました。なお、この取下げに際して、金銭の授受等が一切なかったことは、お知らせのとおりです」(週刊文春編集長 竹田聖)とコメントしています。
文春報道は昨年12月27日発売号。これに対し、今年1月8日に吉本興業が松本氏の活動休止を発表し、松本はSNSに「事実無根なので闘いまーす」と投稿し、1月22日には提訴。3月28日には東京地裁で第1回口頭弁論が行われ、第2回の口頭弁論前に訴えを取り下げたと言います。
このように、本件訴訟は本格的に始まる前にあっけなく終結しました。文春側は民事訴訟法に基づく取り下げ同意をしただけで、訴訟上の和解にも至っていません。
筆者も弁護士として申し上げると、通常、勝訴の見込みがある事件ではこのような終結はしません。早々に撤退し、ダメージコントロールをはかったように見受けられました。
一方、勇気を出して被害を訴えた結果、5億5000万円を請求する極めて威嚇的な訴訟に巻き込まれ、振り回された被害者の方々のこの約1年の心的ストレスはいかばかりだったでしょうか。著名芸能人の多大なる権力性をいやというほど思い知らされる顛末です。
これで終わりなのか
週刊文春との訴訟が決着したからと言って、問題は解決したとは言えないでしょう。
訴訟は松本氏側が一方的に文春を訴えたもので、文春が訴え取り下げに同意したからと言って、被害告発があった事実がなくなるわけではありません。
いわば、問題は訴訟前の振出しに戻っただけであり、性加害報道を受けて、当人、所属事務所、関連企業がどのような対応をすべきなのか、と言う点は、これからの課題として残ります。むしろ、問題をあいまいにすることは許されないというべきではないでしょうか。
松本氏のお詫びも、報道を認めて2名の被害者に正面から謝罪した内容とは認めがたいものです。
文春側は「原告代理人から、心を痛められた方々に対するお詫びを公表したいとの連絡」を受けて取り下げをすることになったとされます。
ところが、松本氏のお詫びは「参加された女性の中で不快な思いをされたり、心を痛められた方々がいらっしゃったのであれば、率直にお詫び申し上げます。 」というもので、仮定形です。
このようなやり方が政治家の失言の際によく使われ、批判の的となる語法であって、責任の所在を曖昧にするものです。
報道に対して、事実無根だとして、5億5000万円も請求したのですから、報道された事実に対し、正面から向き合って謝罪をし、責任を明確にするのが筋ではないでしょうか。
被害者のお一人は朝日新聞の取材に応じて、「私は仮定ではなく、実在するので深く傷ついた。記事には一切誤りが無いと今も確信している」と話したとされます。
松本氏は、社会的影響力のある芸人ですので、子どもや若者の手本となるような責任の取り方を再検討すべきではないでしょうか。
吉本興業は第三者調査を実施すべき
松本氏の対応いかんに関わらず、吉本興業は、事実関係を調査するために、独立性の高い第三者調査を行い、被害を申告している人、松本氏や同席したと報じられる芸人、女性をアレンジしたとされる芸人などからヒアリングを行い、事実を認定したうえで、対応策・再発防止策を明らかにすべきです。
松本氏が「かつて女性らが参加する会合に出席しておりました。」と曖昧な言い方をしているとおり、飲み会は複数回開催され、週刊文春報道以外にも被害者がいる可能性があります。被害にあった方がいれば、旧ジャニーズ事務所と同様に、補償の問題も避けて通れないでしょう。
2023年の刑法性犯罪規定の改定により、相手方の同意のない性行為をした場合、犯罪であることが明確にされ、被害者側が、性行為に「同意しない意思」を形成、表明あるいは全うすることが困難な状況があれば、性犯罪と扱われることになりました。不同意を示す事情の一つとして「経済的又は社会的関係上の地位に基づく影響力によって受ける不利益を憂慮させること又はそれを憂慮していること」が条文に明記されており、芸能界を含むビジネスがらみの性加害の認定において重要な規定です。
この改正刑法規定は遡及適用されませんので、過去の行為には新しい刑法規定が適用されるわけではありません。しかし、「何が性加害であり、人権侵害なのか」を考えるにあたって、参照されるべきです。そして、性行為は、事前に相手の自発的な同意を得る必要があること、社会的影響力を濫用して性行為を強要してはならないこと、飲み会に参加したことは性行為の同意ではないこと、など、当たり前の常識・人権感覚に即して、事実認定がなされ、しかるべき処分がされる必要があるでしょう。
関連企業の責任
ジャニーズ問題のおさらいのような話になりますが、国連が定めたビジネスと人権指導原則に基づき、企業は自社のみならず取引先で発生した人権侵害についてもこれを防止し、被害を軽減する責任を負います。性加害行為は深刻な人権侵害に他なりません。
2023年夏に来日した国連ビジネスと人権作業部会は、今年6月に国連人権理事会に提出した最終報告書において、ジャニーズ問題に限らず、より広範なメディアやエンターテインメント業界における性的暴力やハラス メントの問題への取り組みは不十分なままとなっており、業界慣行が不処罰を助長させている、と厳しく指摘しています。
性加害問題はエンターテイメント業界の構造的課題であり、ジャニーズ問題で終わったわけでは全くありません。もし吉本興業が第三者調査を実施しない場合、関連業界がどのような取り組みをするのか、問われています。
なぜ文春に被害者が駆け込むのか
エンターテイメント業界における性加害は文春砲と言うのが定番になっていますが、文春は報道機関ではあって、被害救済窓口ではありません。今回も文春としては訴えの取り下げに同意する以上のことはできなかったのでしょうし、被害救済まで文春が担えるものではないでしょう。
被害者がなぜ、文春に駆け込むしかないのか、それは被害を救済する機関がエンターテイメント業界に確立されていないからです。芸能界に関わる人の多くはフリーランスで、駆け出しの弱い立場の若い人ほど性加害の被害にあい、報復を恐れています。報復を受けずに被害救済を受けられる相談機関、独立性ある第三者が公平に事実を認定し、賠償等の被害回復を進める、業界横断的な被害救済機関(グリーバンス・メカニズムと呼ばれる)を設置することが必要です。
SLAPP訴訟を横行させないために。
SLAPP(スラップ)訴訟とは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの略で、声を上げた被害者等を沈黙させるために社会的に力の強いアクターが行う提訴で、日本以外でもよく見られます。
本件で松本氏は事実無根と主張し、提訴したもので、主観的にSLAPPの意図があったのかはわかりませんし、もちろん誰もが司法救済を求める権利があります。
しかし、声を上げる被害者に関連する報道に対し、社会的に力のある存在が、巨額の賠償請求を行うやり方の是非は、今後様々な機会に、社会的議論を尽くしてほしい問題と言えます。
以上のような様々な点から、本件は到底一件落着とはいえないでしょう。
社会をよりアップデートし、誰もが声を上げやすく、泣き寝入りせずにすむ社会にしていくために、社会的な議論が深まり、対応が進むことを期待します。
被害者の方は、「強い者が弱い者を性的に搾取しない社会の実現を願っています」と語ったとされています。 (了)