【光る君へ】藤原兼家が強行した、一条天皇の春日行幸の意味とは
今回の大河ドラマ「光る君へ」では省略されていたが、藤原兼家は一条天皇の春日行幸を強行した。しかし、兼家が提案したとき、朝廷はこれに強く反発したという。その間の経緯について、考えてみることにしよう。
寛和2年(986)に一条天皇が即位すると、外祖父の兼家は摂政に就き、専横を振るった。子の道隆、道兼、道長は尋常ならざる出世を遂げ、道隆の娘の定子は一条天皇に入内した。
とはいえ、父の円融法皇の権威はいまだ衰えず、兼家が注意を払っていたのは事実である。したがって、春日行幸を実現するには、意外なほどの苦労が伴った。
そもそも春日行幸の前提となる春日詣(春日大社〔奈良市〕に詣でること)とは、藤原氏が行っていたものである。春日大社の由来は、和銅3年(710)に藤原不比等が藤原氏の氏神の鹿島神を御蓋山に遷し、春日神と称して国土安穏、国民繁栄を祈念したことからはじまった。
承和8年(841)、藤原氏の氏長者は、春日大社の拡充や春日祭祀を執り行い、同氏の繁栄を祈念した。延喜18年(918)11月3日、藤原忠平が春日大社に詣でたのが、記録で確認できる最古のものといわれている(『貞信公記』)。
つまり、藤原氏にとって、春日大社を参詣することは、非常に大きな意味があったのである。そこに一条天皇を迎えるというのが、兼家の狙いだった。
永祚元年(989)2月5日、兼家は翌月に一条天皇が春日に行幸することについて、奏上を行った。実現すれば、天皇による初の春日行幸となる。しかし、朝廷内では、非常に反発が大きかったという。一条天皇が春日に行幸すれば、兼家の権勢を宣伝するようなものだったからだろう。
円融法皇も「夢想よろしからず」と述べ、反応が鈍かった。「夢想よろしからず」とは、夢の中に神仏があらわれ、「良くない」と回答したことになろう。しかし、一条天皇の母の詮子(兼家の娘)の強い意向、そして兼家の強い希望も相まって、ついに春日行幸が実現したのである。
こうして同年3月22・23日の両日にわたって、一条天皇による春日行幸が実現したのである。とはいえ、兼家は強引にことを進めたのではなく、円融法皇や朝廷の公卿層を説得してのことだった。いかに権力者とはいえ、あまりやりすぎるのは良くなかったようである。