千利休の命日に京都のゆかりの地を紹介
今日は千利休の命日。天正19(1591)年、享年70。利休の人生に想いを馳せながら、京都における利休ゆかりの地を紹介したい。
利休は大阪堺の豪商の魚問屋「ととや」の跡継ぎとして生まれた。早くから茶の湯に親しみ、武野紹鷗に師事し、その後、堺を支配した織田信長の茶頭となり、続いて天下人・豊臣秀吉の茶頭となり重用される。信長は「茶の湯御政道」を推し進め、秀吉もさらに茶道にのめり込んだことから、茶頭としての利休の立場は絶大なものとなった。
信長や秀吉に仕えた戦国大名達は利休に茶を教わりたいと願い出るものが相次いでおり、北野大茶会では演出を含め、総指揮を任され、その名声はピークに達する。しかし、最大の庇護者であった豊臣秀長が病死すると、秀吉の勘気を被り、堺で蟄居の後、自刃した。
秀吉自身は利休が謝罪すれば許そうとしていたとも言われているが、権力に屈することは、村田珠光や武野紹鴎といった先人に対して、また自らが唱えてきた茶の湯に対しての冒涜であると考え、最後まで自らの意志を貫いたという。
利休の精神と自ら選んだ最期(死)は、後の茶道に計り知れない影響を与えていく。利休の死後間もない江戸時代初期、茶道は諸大名を中心に支持され、全盛期を迎えることとなったのだ。
続いてゆかりの地を見ていこう。まず勘気を被ったきっかけは、利休の菩提寺である大徳寺での話だ。こちらの三門を利休が修復した折、大徳寺側が感謝して利休の木像を三門の二階に掲げたのだが、この下を潜った秀吉は利休に足蹴にされたと憤ったというのだ。その三門は今でも現存している。
さらに同じく大徳寺には利休の菩提寺である聚光院、利休が庭園を造った黄梅院、利休の灯籠を墓石として使う高桐院がある。この灯籠は「欠灯籠」と呼ばれているが、これは利休秘蔵のこの灯籠を秀吉が欲しがったので、利休が一部を欠けさせて「傷物なので関白様には譲れない」と固辞したものだ。
利休の京都における屋敷はかつての聚楽第付近にあったと考えられており、晴明神社の前には屋敷跡の石碑も残る。神社内の晴明井は利休も茶の水として使ったという。神社の東側には楽美術館があり、こちらは利休が求めた茶碗を作った長次郎(楽家)以降の歴代当主が工房を構えている場所でもある。
利休は秀吉の政権運営に深く関わったとされるが、最も目立つのは北野大茶会。北野天満宮で行われた市民参加型の茶会で、利休が総合演出を請け負い、見事に成功させた。現在も、石碑や太閤井戸が残る。
また秀吉の子であった鶴松が亡くなった際に創建された祥雲寺(現在は智積院)には利休好みの庭園が伝わっている。建築としては大山崎の妙喜庵に待庵という国宝の茶室を残しており、予約制で見学することが可能だ。
茶道関係や弟子関係に話を広げるとさらにたくさんのゆかりの場所が挙げられる。ぜひこの機会に利休ゆかりの地を巡って欲しい。