「やりきれた」プロ野球選手だった父の後を追う石川ミリオンスターズ・藤村捷人、独立リーグでの1年とは
■一時は野球を辞める決意をしていた
「この1年、本当にやりきれました!」
清々しい表情でこう話すのは、日本海オセアンリーグ・石川ミリオンスターズに所属する藤村捷人(ふじむらしょうと)選手だ。今季最終試合となった対オリックス・バファローズのファーム戦後のことだ。
社会人チームのエナジックを辞め、意を決して独立リーグの世界に飛び込んだのは、NPBを目指すためだった。
実は社会人3年目の昨年、都市対抗予選で敗れたときに「辞めます」と、野球には区切りをつけていた。就職活動の話などもして、気持ちは新しい道に進んでいた・・・はずだった。
ところが、当時介護士として勤務していた職場の人たちなど、周りが惜しんだ。そして「野球を続けてほしい」と、本社の会長にまで話が伝わる騒ぎになった。
また、故郷・広島で野球塾を経営する父に電話で相談もした。すると「広島には帰ってくるな。野球をしろ」と、元プロ野球選手(日本ハムファイターズ・1989年入団)の父にも後押しされた。
応援してくれる人たちの思いを感じ取った藤村選手は、心残りはないと思い込んでいた自身の意識下に問いかけてみた。すると、やはりその奥底にはまだ種火がくすぶっていることに気づいた。「NPBに行きたいんだ」と―。
そこで、それまで生活面の心配などから頭にはなかった独立リーグに目を向け、さまざまな人の縁でミリオンスターズに入団することになった。
■不振にあえいだ前半戦
「もう1年、勝負しよう」と腹をくくって臨んだ今季だったが、シーズン前半は苦しんだ。打率は2割ちょっと、出塁率も3割をやや超えるくらいという低迷が続いた。
「本当に打てなくてチームに迷惑をかけてしまった。バッティングに関してはすごく苦労した。要因はなんだったのか…ずっと続いていく公式戦のプレッシャーなのか、数字も気になるし、連戦というのも今までなかったことだったので」。
練習では悪くはなかった。しかし試合となると結果が出ない。苦悩が深まり、自分のいいときの形がなかなか思い出せないでいた。
「自分のバッティングがコロコロ変わってしまった。結局、自分の“コレ”というものが見つからないまま、ふわふわした状態で試合に入っていた」。
後藤光尊監督からは体の後ろ側を振ること、内からバットを出すことなど、さまざまなことを懇切にアドバイスしてもらった。そしてそれを、自分の感覚に当てはめながら試行錯誤を続けた。
■自分らしさを取り戻した後半戦
苦しみもがいていた中、8月17日の試合だ。2打席無安打で迎えた第3打席、ふと閃いてバットを寝かせて構えた。そして、そこからバットを引いてヒッティングに切り替えて打ち、安打を放った。バスターだ。打球はレフト方向への二塁打となった。
「これだ!」と感じた。これまで大学時代や社会人時代にも取り入れていたバスターは、藤村選手にとっての“引き出し”の一つで、打てないときに還る“原点”だった。
次の試合の直前、後藤監督からも「普通の構えのときもバスターのイメージで振ってみたら」と助言され、その試合でも2安打した。
そこからようやく本来の感覚を取り戻し、成績にも反映されるようになった。その時点で8月も半ばを過ぎていたが、最終的には打率.308、出塁率.396で終えることができた。
■スピードとケガをしない走り方
出塁できるようになったことで、ウリの一つである走力も見せられるようになった。
「足で売っていこうっていうのは決めていたので、走り方一つにしても意識しながら、塁に出たら常に積極的に狙っていく姿勢でいた。警戒されている中で、いかに走りやすいカウント、ボールでいくか。バッテリーとの駆け引きをしながらやっていた」。
後藤監督からは「いけるときにいっていい」とグリーンライトを与えられ、「アウトになってもいいから、とにかく走って、“走れるアピール”をしたかった。だから失敗は気にしなかった」と果敢に攻め、盗塁数はリーグ2位の26コで終えた。
50m走は5.8秒を誇るが、実は昨年、6.0秒から0.2秒縮めたという。これは非常に大きな進化だ。
「YouTubeで武井壮さんとか、陸上選手の走り方やトレーニングを研究した。足が常に上がっている状態というか、後ろに流れないように膝がパンパンって上がっている状態で走る。バネとかジャンプ系を意識しながら。そうしたら速くなったし、けがをしない走り方を身につけられた」。
同級生と指摘し合いながら、切磋琢磨して習得した走法は、ミリオンスターズでも片田敬太郎コーチから絶賛され、チームメイトの模範になっている。
■ユーティリティな守備
守備では内外野守れるユーティリティさを発揮した。小学生からずっとピッチャーをしてきたが、呉港高校2年秋、新チームになってから「ショートに専念してくれ」と言われた。チーム事情でピッチャーに戻ったこともあったが、肘を痛め、それからはショート1本になった。
常葉大学でもショートを守り、エナジックに入って野球人生で初めて外野に就いた。1年間外野をやり、2年目、3年目はほぼ内野に専念した。
ミリオンスターズにも内野手として入団したが、オープン戦でけが人が続出して外野手がいなくなったとき、自ら手を挙げ、外野も守れることをアピールした。それはそのまま後藤監督の手札となり、シートノックでは内外野どちらにも入り、ゲームではセカンド、ショート、サード、センター、レフトとさまざまなポジションをこなした。
「ショートへのこだわりは強いけど、センターをやってみてセンターのおもしろさもある。ランナーを刺すこともそう。距離を投げられるので自信のある肩をアピールできるし、足も活かせる。グラブさばきやハンドリングはショートで、肩はセンターで」。
いずれにしろ、センターラインにこだわりがあるのは「チームの中心でありたい」という思いと、「スカウトからも見られる回数が多い」という考えからだという。
■「捷人」に込められた思い
子どものころ、「捷人(しょうと)はショートだろ」と、よく冗談めかして言われた。名前の由来を「『捷』っていう字に『勝つ』っていう意味もあるみたいで、『戦いに勝つ人』ということだと思うし、父親もショートをやっていたんで…」と説明する。「捷」には「すばやい、はやい」という意味もある。
藤村家の長男(妹が3人の4人きょうだい)は、ファイターズのショートを守った父・宣人さんから思いを込めて「捷人(しょうと)」の名を授けられた。
ただ、息子への期待の大きさから、めちゃくちゃ厳しい父だった。「話もしたくなかった」と、とてもじゃないが冗談など言い合うこともできず、「逃げるように広島を出た(笑)」と大学からは実家を離れた。それでも父ははるばる試合を見に来ては、「けちょんけちょんで…」と辛らつな言葉を発した。その厳しさは、さながら漫画「巨人の星」のようだったという。
しかし、今年は自身が変わった。これまでの野球人生で経験したことのないようなどん底を味わったことで、そういうときに頼れるのはやはり父だと気づいた。
「小っちゃいときからずっと近くで見てるんで、自分のことを一番よく知ってくれている。アドバイスも的確」と、自ら父に何度も電話した。「わざわざ怒られるために、喝を入れてもらうために電話していた。こんなことは初めて」と、自分自身の成長も自覚した。
不調にもがき、開けた引き出しにあったバスター打法も、かつて父から授けられたものだった。自分の野球の原点には父がいる。父の教えがある。だからこそ、父がかつていた舞台に、自分も立ちたいと強く願うのだ。
「やっと普通にしゃべれるというか、お酒を飲みながら話ができるようになった。父も嬉しそう」。
期せずして、打撃不振が父と子の絆をより強固なものにしてくれた。これは野球の神様の差配なのかもしれない。
■最高の師匠と仲間に出会えた
ミリオンスターズには「来てよかった」と心底思っている。なにより大きかったのは後藤監督との出会いだ。「最初から後藤さんについていくって決めていた。理想の人」と、まさに自身が目指す選手像である後藤監督からは丁寧に指導してもらい、かわいがってもらった。
また、チームメイトにも感謝している。同級生が多かった社会人時代と違い、年下ばかりで、「みんな、いろいろ質問してくれたり、距離も近くてかわいい後輩ばかり」と慕われることが心地よかった。
先のバファローズ戦でも、最終打席に向かうときに川﨑俊哲選手や植幸輔選手から注目された。背中に後輩たちの視線を感じながら、「おまえら、俺の最後の打席を見とけよ」と言って打席に向かうと、ベンチから「アニキ!」の声が飛んだ。
足を生かした“らしい”内野安打で出塁し、その後、俊足を飛ばして同点のホームにヘッドスライディングで滑り込んだ。
「(ユニフォームが)ドロドロでベンチに還ったら、みんなからの“ウエルカム感”がすごくて、めちゃくちゃ嬉しかった」。
すっかり顔なじみになった選抜メンバーが、最高の笑顔で出迎えてくれた。
対NPBの試合では好成績を残してきた。計8試合、27打席で打率.348、出塁率.423、長打率.478、盗塁4を記録した。
シーズンの成績と併せてどのように評価されるのか。答えが出るのは間もなく。今はただ待つばかりだ。
【藤村 捷人(ふじむら しょうと)】
1997年3月30日生/広島県
右投両打/173cm・75kg
呉港高校―常葉大学―エナジック
【藤村捷人*今季成績】
59試合 打数201 安打62 二塁打4 三塁打5 本塁打1 打点24
四球25 死球6 三振33 併殺打6 盗塁26 盗塁成功率.722
打率.308 出塁率.396 長打率.393 OPS.789