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【深読み「鎌倉殿の13人」】一ノ谷の戦いで散った、平忠度の最期と「薩摩守」=「ただ乗り」の意味

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平忠度は、和歌の名手だった。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回では、一ノ谷の戦いで平家が敗北したが、平忠度の最期は取り上げられていなかった。その背景を詳しく掘り下げてみよう。

 天養元年(1144)、平忠度は忠盛の子として誕生した。清盛の弟である。治承4年(1180)、忠度は正四位下・薩摩守に叙位任官された。これが、無賃乗車の隠語となった。

 忠度は「ただのり」と読んだので、「薩摩守」は「ただ乗り」=「無賃乗車」の隠語となった。狂言『薩摩守』では、僧が渡し舟に乗って「平家の公達、薩摩守忠度」と言い、舟賃を払おうとしなかった場面がある。

 一方で、忠度は和歌の名手であり、藤原俊成から手ほどきを受けていた。寿永2年(1183)に平家が都落ちする際、忠度は俊成の屋敷に向かい、100余首の和歌を託した。

 その中の1首は「詠み人知らず」として、俊成の選によって『千載和歌集』に収録された。その和歌が「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」である。その後も忠度の和歌は勅撰和歌集に収録され、『新勅撰和歌集』以後は忠度の名も記載されるようになった。

 元暦元年(1184)2月、ついに一ノ谷の戦いが勃発した。平家の軍勢は源義経の急襲、源範頼の攻撃により、あっという間に瓦解した。平家の面々は、船で屋島(香川県高松市)を目指して逃亡した。

 忠度も源氏の軍勢に紛れて、戦場から離脱しようと試みた。忠度はいったん明石(兵庫県明石市)へと逃れ、そこから再び摂津方面に向かい、船で逃走しようと計画していたのである。

 しかし、忠度は鉄漿(おはぐろ)をしていたので、平家の公達であることがばれてしまった。岡部忠澄は忠度に戦いを挑み、見事に討ち取ったという。現在、忠度が討ち取られたという場所(明石市天文町)には、忠度塚が建立されている。

 忠度は教養が豊かだったので、優れた人物が討たれたと惜しまれた。その後、忠澄は忠度の供養をするため、清心寺(埼玉県深谷市)に供養塔を建立したのである。

■むすび

 平家は我が世の春を謳歌したが、その末路は悲惨だった。忠度も生きていれば、立派な歌人になったかもしれないが、その夢は断たれたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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