藤江均 投手(横浜DeNAベイスターズ、東北楽天ゴールデンイーグルス)が現役引退を決意!
■野球が嫌いになっていた
「引退します」。さっぱりとした口調で、藤江均投手はこう切り出した。
NOMOベースボールクラブから東邦ガスを経て横浜ベイスターズに入団し、その後、横浜DeNAベイスターズで主力投手として活躍した。昨年は東北楽天ゴールデンイーグルスに籍を移したが、1年でユニフォームを脱ぐこととなった。
新天地を求めて今年向かったのはアメリカの独立リーグだった(詳細記事⇒「藤江均、アメリカへ挑戦!!」)。「やれるうちにアメリカの野球を経験したい」。その思いが結実し、アメリカの独立リーグ・アトランティックリーグのランカスター・バーンストーマーズでプレーできることになった。マイナーリーグの3Aクラスの高いレベルのリーグだ。しかしビザがなかなか下りず、ようやく渡米できたのは7月末。実際にプレーできたのは2ヶ月足らずだった。
それでも大きな“お土産”を持ち帰ることができた。藤江投手自身、もっとも嬉しかったのは、「野球が好き」という“原点”に戻れたことだ。野球を始めた幼い頃、野球が大好きだった。けれど目指していたプロの世界に入ると、野球の技術やプレー以外のことで疑問を持つことが増えた。純粋に野球が好きだけでは通用しない世界だった。しがらみもあれば、ときには諂いも必要だった。そういったことを黙って看過できない性格ゆえ、気づいたことがあれば面と向かって口にしてしまう。すると軋轢が生じることも少なくなかった。ただ勝ちたかった、チームを強くしたかっただけなのに…。そのために野球がうまくなって戦力になりたかっただけなのに…。
さらに「自分のことだけやっとったらええねん」などと言う先輩もいた。確かに自分のことをしっかりやることがチーム力アップになるのかもしれない。けれどその先輩の振る舞いを見ていると、決してそうなるようには思えなかった。「ボク、やっぱりそんな自分のことだけって、できないんですよ。周りの人のことも気になってしまう。周りの人のおかげで自分も頑張れるし、人に注意したりすることで自分も発奮できるから。チームプレーってそうやと思う」。自分のことだけ考えていて、チームが強くなるとはとても思えなかった。
■アメリカの野球が教えてくれたこと
そんなことも重なって「野球がね、好きじゃなくなっていたんですよ」。野球に興味を持つ一人息子に「野球っていいぞ」と言ってしまう自分も嫌だった。本当に心からそう思っていないのに。
そんな藤江投手に、アメリカは教えてくれた。「やっぱり野球はいいものだ」と。純粋に野球に打ち込み、チームが勝つためにどうするかということに没頭できた。「厳しいと言われるリーグだけど、苦じゃなかった。むしろ野球を楽しめた」。
確かに薄給で、NPBでプレーしている頃と比べたら環境はいいとは言えない。「日本だと試合前の食事が豪華やけど、あっちでは食パンとハムがぽんと置いてあるだけ」だが、試合後は700円のクラブフィーを払えば食事が出るし、クリーニングもしてくれる。「想像していたよりは断然よかったです」と語る。
ただ移動のバスは過酷だった。普通サイズのシートに大男と隣同士で肩を寄せ合い、最大で9〜10時間、移動したこともあった。そんな状態で球場に着くと、すぐに試合だ。それでも藤江投手は、そんなことすらも楽しめたという。
そして自分の野球の価値観とは違うであろうと行ってみたアメリカで、意外にも共通する部分が多く、それがまた嬉しかった。「もっとドライで個人主義やと思っていて。アメリカ人に対する偏見でした(笑)」。むしろチームプレーが優先で、勝利を重んじる。そのためには気づいたことがあったらすぐ意見するし、ミーティングにも熱心だという。「熱いし、どれだけ実力があっても勝手な行動は許されない。ボクには合っていたし、やっぱりこうやなって再確認できた」。それこそが藤江投手の求めていたスタイルだった。組織で、チームで勝つために個人は存在する。勝ってこそ、満足感が得られる。「個人スポーツじゃないんでね。どれだけ高いレベルになっても、それは同じやと思う」。
アメリカの野球を経験しておきたいと思ってやってきたが、謀らずも自分自身が肯定され、さらに「野球が好き」という原点回帰もさせてくれた。
成績は22試合26イニングス投げて1勝0敗、被安打28、奪三振31、与四球3、防御率は4.50。なんと6年ぶりに先発も2試合こなしたという。「中継ぎで投げて中3日で『先発できるか?』って言われて…。投げられないことはないし、チャンスが広がればと思って3回やけど投げました」。するとまた、今度はそこから中2日で投げるように言われた。「先発が足りないのはわかっていたし、『いきますわ』って3イニング投げました」。監督からも礼を言われ、何より3回1失点の内容がよく、「経験できたのはよかった」と振り返る。「肩、肘と相談して、いけるなと。チャンスやと思って、投げられる限りは投げようと思っていました」。これがまた貴重な経験となり、野球の楽しさをより味うことができた。
■ウィンターリーグを探し、マイナーのテストも受けた
そしてシーズンが終了し9月に帰国してからも、野球ができる環境を探した。外国人の代理人を通じ、各地のウィンターリーグに参加できるよう当たってもらった。ウィンターリーグも上はドミニカから下はプエルトリコやメキシコまで様々なレベルがあるが、目指していたのは「高いレベル」での野球だ。ただ野球を続けたい、レベルも厭わないというのであれば、なくはない。けれど自分の求めているレベルでなければ、やる意味はない。
しかし求めるレベルのリーグがなかなか見つからない。枠もタイミングもある。帰国して横浜に立ち寄ったとき、かつて独自ルートでウィンターリーグに参加した経験のある筒香嘉智選手にも打診してもらったが、8月からメンバーを集め始めていたそのリーグは、もう既にメンバーも決定して開幕していた。
そんな折、代理人からマイナーリーグのテストの話を持ちかけられた。地元の大阪で個人的にテストをしてくれるという。チャンスだとばかりに10月22日にテストを受けたが、約3週間後に不採用との連絡があった。
■野球に未練はないか…と自問自答
そこで熟考し、「現役を辞めよう」との結論に至った。これまで奥さんと息子クンはいつも応援してくれた。「収入がほとんどなくて不安な気持ちもあったと思うけど、それを抑えてアメリカに行かせてくれた」という奥さんからは「続けるなら応援するよ。野球に未練がないようにだけ思っている」と言われたという。
「野球に未練がないように」…それを自身に問うたとき、「やりきった、と思えたんです」という。「高いレベルでしか考えていない。その求めるレベルに見合った野球ができなくなったときは、自分の中で線引きをすべきかなと思って。じゃあなぜ続けようと思ったのかって考えたとき、意地だったり、周りの方のためとかいう部分もあった。でも今年一年、家族には迷惑をかけてるし、これまで家族にやってきてもらったことを返したいなというのが今の思いなんで」。
■チーム愛にあふれた先輩―佐伯貴弘氏との思い出
引退する意志をいろんな人に伝えた。その中で、どうしてもある思いを伝えたい人がいた。ベイスターズ時代の先輩、佐伯貴弘氏だ。プロデビュー戦で好投し、気をよくしたあとの自身2度目の登板(対読売ジャイアンツ戦)でボコボコに打たれた。悔しさ、歯がゆさから、ベンチに戻って思わずグラブを投げつけてしまった。そのとき、隣に座っていたのがベテランの佐伯氏だった。誰かがグラブを拾い上げようとしたとき、佐伯氏は一言「拾わんでいい!」と制止した。
そして試合後、ベンチ裏の部屋に呼ばれた。鍵をかけられたときには「うわっ!シバかれるんちゃうか」とビビったが、佐伯氏は静かに問いかけた。「さっき自分でグラブ拾って、どんな気分やった?ええ気分やったか?」声を荒げることもなく、こんこんと諭された。
「佐伯さんはいつもチームのためを思って、いろいろ言われるんです。でもそれを面白くないと思う人もいて…」。熱く、チーム愛が強いがゆえに、軋轢や衝突も生まれる。人間、誰しも嫌われたくないし、嫌なことは言いたくない。けれど佐伯氏はチームのためならと進んで嫌われ役を買って出ていたという。「ボクはそんな佐伯さんが好きだし、ボクもそんな人間でありたいって思うんで。あのときのことはずーっと心に残っていたから、引退を報告したとき、佐伯さんにそれを言いました」。そして思った。この先も変わらずそういう人間でいようと。
■これから・・・
今後については「一旦、野球から離れて社会に出て、自分自身、成長できるように勉強しないと。家族のためにもしっかりした生活の基盤を築いた上で、自分が野球で経験してきたことを後世に伝えていきたい」と話す。英語のヒアリング力も少しは上達した。「英語が喋れて損することはないんで、これからも学んでいきたい」と意欲的だ。
お兄さんの一雄さんとともに投資した焼肉屋がある。現在、一雄さんが切り盛りしているが(*下記参照)、そこで働きながら社会勉強をしていく予定だ。そして「ゆくゆくは野球に携わる仕事がしたいなと思っています」と明かす。
ユニフォームを脱ぐことに関して「スッキリしています」と言ったあと、「でも悔しい気持ちはあります。見返してやろうと思ってやっていたんで」と吐露した。「でも、それは新たなステップで頑張っていければ。ビッグになって野球界に恩返しできるような人になりたい」。
そのときには胸を張って、心から伝えたい。「野球っていいよ」と。
【兄の一雄さんとともに投資した焼肉屋⇒焼肉39ゴリラ】