知的ワクチンを打とう:新型コロナウイルス肺炎の感染予防とリスク・コミュニケーションの心理学
■あなたは「知的ワクチン」を打っていますか:新型コロナウイルス肺炎の感染を防げ!
広がりが止まらない新型コロナウイルス肺炎の感染。WHO(世界保健機関)も、緊急事態を宣言した。
今すぐ世界中の人に完璧なワクチンが打てれば良いのですが、それはまだできません。世の中にある様々なリスク。地震や水害や感染症。それらの危険を完全に防げる方法は、ありません。どんな地震にも壊れない建物、すべての水害を防げる堤防はないのです。
そのようなハード面での整備が不十分なら、ソフト面の対策が必要です。それは、私たち人間の知識や適切な行動です。
感染症と戦うために必要な知識が、「知的ワクチン」です。
医師には医師の、私たちには私たちの戦い方があります。
■知識と行動が病気と闘う武器になる
たとえば、アフリカでは多くの子供たちがただの下痢による脱水で命を失っていました。そこに必要なのは、哺乳瓶の煮沸(しゃふつ)消毒の必要性を伝えることでした。
先進諸国でも、どんなに立派な病院と健康診断のシステムを作っても、それだけでは病気は減りません。人々が、自発的に健康診断を受けようとする気持ちと行動こそが大切です。
地味なことかもしれませんが、正しい知識と行動が、私と家族の健康を守り、社会を守ります。
日本では、かつての感染症流行の時も、他国に比べて被害は少なくなっています。衛生観念の発達、豊富な情報、指示に従う誠実さの効果だと言えるでしょう。
■感染症流行時のデマ:知的ワクチンを妨害するもの
人々が不安になるとき、流言飛語(デマ)が飛び交います。今回も、新型コロナウイルスの感染を防ぐためには、紅茶や塩水や酢が良いといった誤った情報が出ています。科学的根拠はありません。
もっとひどい話になると、これは生物兵器だとか、偉い人間だけがワクチンを持っているとか、とても怪しげな陰謀論まで出てきます。
<フリーメーソン陰謀論の心理:テンプル騎士団、薔薇十字団、イルミナティ、都市伝説を信じる理由と危険性>
紅茶を飲むことは悪いことでありませんが、適切な予防行動をないがしろにして、余計で誤った知識に翻弄(ほんろう)されてはいけません。
目に見えないウイルス、まだ専門家でもわからない部分はある。日に日に不安は高まる。そんなとき、人は正しい知的ワクチンを捨て、デマに飛びついてしまいがちです。
感染症の脅威とパニックを扱った映画『コンテイジョン』(2011アメリカ、監督:スティーブン・ソダーバーグ)は、10年近く前の映画ですが、ネットによるデマが描かれています。
映画では、多くのフォロワーがいるインフルエンサーの男性が、漢方で使われる「レンギョウ」が特効薬だと発信します。感染症におびえ、ワラをもつかむ気持ちの人々の間で、レンギョウの争奪戦が始まります。
私たちは、これを映画の話だと笑えるでしょうか。
<人はなぜ嘘(流言・デマ・都市伝説)を信じてネットで拡散させるのか:ネットデマの心理学>
■知的ワクチンを伝えるリスク・コミュニケーション
リスク・コミュニケーションとは、地震であれ感染症であれ、社会的なリスクに関する情報を、政府、企業、市民などで正しく共有すること、意思の疎通が取れていて、合意が取れていることです。
適切なリスク・コミュニケーションが取れていれば、知的ワクチンが広がり、感染症予防に効果をあげます。
政府がパニックを不要に恐れすぎずに正しい情報を出すこと。国民が政府や専門家を信頼し、隔離対策や移動制限などに納得して従うことが必要です。
中国では、「新型ウイルス、湖北省の当局会見にネットで批判 世論の怒り抑えきれず」との報道も流れています。
日本でも、感染症法の「指定感染症」と検疫法の「検疫感染症」に指定するための政令が施行されます。そうすると、強制力を持って入院させることなどができるわけですが、基本は合意の上でしょう。
力づくで入院させられる人々、必死に逃亡を図る人々。これでは困ります。こうなっては感染が防げなくなりますし、不要な不安が広がることになってしまうでしょう。
適切なリスク・コミュニケーションがあり、人々が納得して自発的に行動していくことが大切です。
■リスク・コミュニケーションの失敗と対策
日本人は、教養レベルが高く、秩序を重んじる国民でしょう。民度が高いなどと言われますね。すばらしいことです。しかし、これまでリスク・コミュニケーションがいつも上手くいったわけではありません。
行政や専門家の言葉が、わかりにくいこともあります。マスコミの責任もあります。市民の無理解もあるでしょう。
災害発生時の避難勧告と避難指示のどちらが強のか、わからなくなるのは、珍しことではありません。
テレビの健康番組が、ある食べ物が良いと放送すると、翌日のスーパーで売り切れが出たりします。多くは、一時の流行で終わりますが。
大手のマスコミは信じられず、ネット情報の方が信用できると思っている人も、少なからずいるでしょう。
コミュニケーションは、相互作用です。どんな気持ちの、どんな知識を持った人々に、何を伝えたいのか、そのためにはどのような表現方法を使うことが正しいのか。伝える側は、正確さだけにとらわれず、わかりやすさこそを大切にしなければなりません。
■正しい行動を導く「プロトタイプ」へのイメージ
しっかり手を洗うこと、消毒すること、マスクをかけること、あるいは高台にいち早く逃げることなど、その時々のリスク場面で、推奨される行動があります。
どうすれば、みんなが適切な行動をとってくれるのでしょう。
一つは、知識、知的ワクチンです。もう一つは、プロトタイプ、お手本になる人や代表的な人へのあり方です。
前回、新型インフルエンザ(H1N1)流行時の筆者の研究によれば、危険を防ぐ行動をとるかどうかに、楽観的か悲観的かの性格などは、あまり影響していませんでした。また、不安が高まれば正しい予防行動がとれるわけでもありませんでした。
<碓井真史2009「新型インフルエンザ(H1N1)のリスク関連行動に及ぼすプロトタイプ・イメージと不安の影響」>
大切なのは、率先して予防行動をとっているプロトタイプ(お手本になる人)や、まったく予防行動をとっていないプロトタイプ(悪い方向での代表)に対して、どんなイメージを持つかです。
予防行動をとっている人に対して、私たちはうっかりすると、臆病、神経質、考えすぎなどと評価してしまいます。また行動していない人に対して、勇気がある、落ち着いていると評価してしまうこともあります。
しかし、このようにイメージしてしまうと、自分も適切な予防行動がとれなくなります。
行動していない人はだめな人で、率先して行動している人こそ知的で立派な人だと評価できる人が、自分も適切な予防行動ができていました。
一人ひとりが、そのように正しく思えるような、そんな社会的雰囲気を作ることが大切だと思います。
■感染症ととの戦い方
映画『コンテイジョン』の宣伝コピーは、「恐怖は、ウイルスより早く感染する」でした。デマ、不安、差別、暴動。映画の怖さはここにありました。
各自は、自分と家族の命を守ろう必死なのですが、結果は混乱と破壊です。人の心は、平和も争いも生み出します。
今、世界では混乱も起きています。必要以上の買い占めによるマスク売り切れ、中国人お断りといった差別的行動も報道されています。これらは、知的ワクチンによる行動ではなく、反知性的な行動です。
個人の知的ワクチンだけで感染症の根絶はできないでしょう。しかし、みんなで協力し合い、感染の拡大時期を遅らせ、感染者数のピークを抑制する効果はあります。つまり、私や私の家族を含め、一人でも感染者を防ぐ効果は大きいのです。
これが、私たちの感染症との戦い方なのです。