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源頼朝は、なぜ弟の義経を討ったのか? 当然すぎる3つの理由を考える

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝像(神奈川県鎌倉市・源氏山公園)(写真:イメージマート)

 ネットニュースによると、昨年放映された「鎌倉殿の13人」が再放送してほしい大河ドラマの第2位になっていた。こちら

 個人的には、源頼朝と弟の義経との間に確執が生じ、最終的に義経が討たれたのが印象的だった。なぜ義経が討たれたのか検証することにしよう。

 源頼朝は、弟の範頼と義経を厚く信頼していた。2人は頼朝の名代として期待に応え、平家を見事に討ち果たした。こうして、憎き平家は滅亡したのである。

 戦後、範頼は三河守として厚遇される一方、弟の義経には官職が与えられず、冷遇された印象が残る。なぜ、頼朝は義経を手厚く処遇しなかったのだろうか。

 義経は頼朝にとって心強い存在だったが、ほかの御家人の手前もあり、弟であっても甘やかすわけにはいかなかった。養和元年(1182)7月に鶴岡若宮宝殿の上棟式が行われた際、頼朝は義経に馬を引くように命じたが、義経は不満そうな態度で暗に断ろうとした。

 すると、頼朝は「馬を引くのは身分が低い者がする仕事なので嫌なのか」と厳しく叱責した。結局、義経は渋々馬を引いたのであるが、きっと不満が残ったに違いない。以下、頼朝が義経を討った3つの理由である

◎理由1:壇ノ浦の戦いで安徳天皇を救えなかったこと

 頼朝は朝廷との良好な関係を維持し、平家追討を行った。平家が安徳天皇とともに都落ちした際、後白河の孫だった安徳を生きて連れ戻すことは、当然のことだった。

 元暦2年(1185)3月の壇ノ浦の戦いで、安徳は二位の尼とともに入水し、そのまま生きて帰ることがなかった。いかに戦闘中の出来事とはいえ、これは義経の大失態であり、頼朝にとって痛恨の極みだったに違いない。

◎理由2:三種の神器のうち宝剣が戻らなかったこと

 平家が都落ちした際、三種の神器を持ち去られたので、頼朝は義経に奪還を命じていた。安徳の代わりに後鳥羽が即位したが、三種の神器がなかったので、不完全な天皇とみなされていたからだ。

 しかし、神鏡と神璽は奪い返したが、宝剣は水底深く沈んだ。以後、朝廷は何度も探索を試みたが、ついに宝剣が見つかることはなかった。頼朝は宝剣が見つからなかったことを知り、思わず天を仰いだという。

◎理由3:義経が頼朝に無断で任官したこと

 頼朝は御家人や義経ら兄弟に対し、自身の推挙がないのに朝廷から無断で官職を授かってはいけないと厳命していた。しかし、先述のとおり、範頼には三河守が与えられたが、義経には官職が与えられなかった。

 元暦元年(1184)8月、義経は頼朝に無断で、後白河法皇から左衛門少尉、検非違使に任じられた。義経は「法皇の意思によるもので、固辞を許されずお受けしたまで」と言い逃れようとした。

 同年9月、義経は従五位下に叙され、10月には院の昇殿を許可された。義経の一連の振る舞いについて、頼朝の怒りは収まらなかったに違いない。

 頼朝は義経を頼りにしており、義経は兄の期待に応えた。しかし、義経が頼朝の定めたルールに従わないと、組織として成り立っていかない。

 いかに義経が血を分けた兄弟とはいえ、頼朝は非常の決断を下さなければならなかった。粛清することにより、いっそう頼朝への求心性が高まったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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