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関ヶ原合戦の引き金となった、上杉景勝の会津転封の裏事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鶴ヶ城。(写真:イメージマート)

 慶長3年(1598)1月10日、豊臣秀吉は五大老のひとり上杉景勝に会津への転封を命じた。ちょうど426年前のことである。ところが、景勝が越後から会津に移ったことは、のちに関ヶ原合戦を引き起こす遠因になった。その辺りの裏事情を考えることにしよう。

 景勝は会津への国替えにより、120万石の大名になった。景勝の旧領の越後などには、堀秀治が越前北庄(福井市)18万石から45万石に加増されたうえで移ってきた。互いに加増のうえの転封だから、決して悪い話ではない。

 景勝の会津への転封には、もちろん理由があった。秀吉は奥州仕置を行なったとはいえ、伊達政宗をはじめ東北の諸大名の監視を強化する必要があった。

 秀吉は五大老の1人である景勝に、その役割を任せたのである。加えて、関東最大の大名である、家康の監視と牽制を行う意味も含まれていたのかもしれない。

 景勝が秀吉から会津(福島県会津若松市)への移封を申し付けられた際には、いくつかの条件を示された(「上杉家文書」)。それは、侍以下、下級の侍層の中間(ちゅうげん)・小者に至るまでの奉公人を1人残らず召し連れることが第一の条件である。

 ところが、第二に、田畠を持ち年貢を納める検地帳に登録された農民は、一切連れて行ってはならないという条件が示された。これは、どういうことなのだろうか。

 第一の条件の侍などを引き連れるというのは、新天地の会津支配を行ううえで必要なのだから理解できる。しかし、農民を越後から会津に連れて行ってしまうと、越後で田畠を耕作する農民がいなくなってしまう。

 これでは、新しく越後に入る大名が困るからだった。景勝は越後を出発した際、年貢米をすべて会津に運び入れたという。越後に新たに入った堀氏は財政難に陥り、大いに景勝を恨んだという。

 慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなり、子の秀頼があとを継いだ。本来、景勝は五大老のひとりとして在京し、秀頼を支える職務を行わなければならなかった。

 しかし、景勝は直江兼続に命じて、領内の整備を着々と行った。そのうえ、新たに神指城を築城し、いっそう充実を図ろうとした。しかし、新たに城を築くことは、戦争準備の一環と捉えられ、徳川家康は大いに警戒した。

 家康は再三再四にわたり、景勝に上洛を要請したが、景勝の腰は重たかった。あろうことか、慶長5年(1600)4月、兼続はいわゆる「直江状」を西笑承兌に送り付けたのである。

 これを読んだ家康は激昂し、ついに会津征討を決意した。「直江状」には真贋論争があり、はっきりしないことも多いが、景勝が上洛を拒否したのは事実である。そこで、家康は景勝の上洛拒否が秀頼への反逆とみなし、討伐を決意したと考えられる。

主要参考文献

笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、2007年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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