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毛髪の再生医療と来たるべき社会

児玉聡京都大学大学院文学研究科准教授
もうすぐ「毛髪格差社会」が到来するのだろうか?(写真:アフロ)

先日「「ハゲがいない時代」到来? 再生医療の研究に歓喜」という興味深い記事を目にした。記事の最初と最後の段落だけ引用する。

京セラ、理化学研究所、オーガンテクノロジーズの三者は、毛髪を生み出す「毛包器官」を再生することで「脱毛症」を治療する再生医療技術を共同で研究することを7月12日に発表。2020年の実用化を目指すという現実味を帯びた内容だったこともあり、ネットでは、薄毛に悩む人たちを中心に歓喜の声が広がっている。

(中略)

日本全国で1800万人以上が脱毛症に悩むともいわれるなか、大きな希望をもたらした今回の発表。近い将来、本当に“薄毛の恐怖”から解放される日が来るかもしれない。

出典:「ハゲがいない時代」到来? 再生医療の研究に歓喜 (T-SITE)

この件については、日本経済新聞ITmediaビジネスなどでも少し前に報道されていたので目にした方も多いだろう。

脱毛症の治療は、脱毛によって精神的苦痛を被っている人々を助けられるという意味では大きな朗報である。しかし、毛髪再生医療によって本当に人々は「薄毛の恐怖」から解放されるのだろうか。

我々が個人または社会として何をすべきかを考えるのは倫理学の役割である。そこで以下では、「毛髪再生医療って倫理学的にどうなの?」という観点から、いくつか重要な論点を解説する。

「ハゲ」は病気か

脱毛症といってもいろいろ種類がある。勉強したい方は日本皮膚科学会のサイトを見てほしい。このうち、「ハゲ」と言われるときに主に問題になるのは男性型脱毛症(AGA)である。日本皮膚科学会の「男性型脱毛症診療ガイドライン(2010年版)」によれば、AGAは以下のように説明される。

男性型脱毛症とは,毛周期を繰り返す過程で成長期が短くなり,休止期にとどまる毛包が多くなることを病態基盤とし,臨床的には前頭部と頭頂部の頭髪が,軟毛化して細く短くなり,最終的には額の生え際が後退し頭頂部の頭髪がなくなってしまう現象である.

出典:男性型脱毛症診療ガイドライン(2010年版)

同ガイドラインによれば、日本人の場合、AGAは典型的には「20歳代後半から30歳代にかけて著明となり,徐々に進行して40歳代以後に完成される」。また、AGAは平均して日本人男性の約3割が発症し、20代以降、年齢とともに発症頻度が高くなるとされる。

このように説明されると、よく知らない人なら、AGAは病気の一種と思ってしまうかもしれない。しかし、実際は、AGAは病気とは見なされていない。これは、同じ脱毛症でも、免疫異常やストレスなどによる円形脱毛症とは異なる点である。次に見るように、AGAが病気と見なされるかどうかは、保険診療との関連で重要である。

「毛髪格差社会」到来の可能性

一般に、ある健康状態が病気と認知されれば、その治療は保険診療によってカバーされる。その場合、病院で治療を受けた場合の患者の自己負担額は通常3割となる。反対に、病気と考えられなければ、その治療はいわゆる自由診療となり、患者は全額を負担しなければならない。美容整形が原則として自己負担であるのは、美容は病気の問題だとは考えられていないからである。

すると、男性型脱毛症(AGA)はどうか。現状では、AGAは病気とは認知されておらず、現在入手可能な治療薬であるプロペシアやリアップX5などは保険適用外である。したがって、再生医療によるAGAの治療法が開発されても、AGAが病気と認知されるようにならない限りは、保険診療の対象とならない。その場合は、自由診療となり、治療費は全額自己負担となる。

日経の記事でも最後に「量産効果が効かない初期段階では、毛髪の再生医療の自己負担は高額になる可能性がある。」と指摘されているが、保険診療にならない限りは、初期段階に限らず、かなりの高額になる可能性がある。

AGAが保険診療でカバーされないと、裕福な者だけが治療を受けられ、そうでない者は治療を受けられない「毛髪格差社会」が生じることになる。この社会では、「薄毛の恐怖」から解放されるのは金持ちだけで、そうでない者は依然として薄毛の恐怖に怯えなければならないだろう。それどころか、「ハゲ」が貧困の象徴として語られ、「ハゲ」に対する差別意識が助長されるかもしれない。

こう考えると、毛髪再生医療がすべての人にとって福音となるかどうかは明らかではなくなってくる。「毛髪格差社会」の出現を防ぐためには、毛髪再生医療の実用化に先駆けて、AGAを病気と認めて保険診療による治療を可能にすべきかどうかを議論しておく必要があるだろう。

「ハゲ」の再生医療研究の優先順位

最後に、男性型脱毛症(AGA)の再生医療研究を社会の優先的課題として推進すべきかどうかという問題を指摘しておきたい。

AGAの再生医療研究の反対論としては、次のものが考えられる。「ハゲ」は老化と同じであり、男性が年を取れば自然となるものであり、治療するのではなく、受け入れるべきである。現在、デュシェンヌ型筋ジストロフィーやパーキンソン病、あるいはアルツハイマー型認知症などさまざまな病気に関する再生医療研究が進んでいる。これらに比べて、AGAは緊急性が低く、むしろより深刻な病気に研究費を投じた方がよいのではないか。仮に民間企業が研究費を負担する場合でも、より緊急性が高い病気に関する研究を進めた方が倫理的なのではないか。

逆に、AGAの再生医療研究の支持論としては、次のものが考えられる。たしかに「ハゲ」で死ぬことはない。「ハゲ」で悩んで自殺するということは考えられるが、死因が「ハゲ」ということはない。とはいえ、AGAで悩む人は多くおり、AGAがQOLや自尊心の低下につながるのであれば、保険診療にするかどうかも含めて、真剣に考える必要があるだろう。また、もちろんニーズが高いものであるから、AGAの再生医療は実用化されれば経済的価値もある。少なくとも民間企業が研究費を投じる限り、どのような問題に取り組むのも自由である。

筆者はどちらの議論も一理あると考えているが、医療費だけでなく、医学研究に使える費用も有限な資源であるため、賢明な使い方が求められる。もしAGAの再生医療研究を国が支援するのであれば、上で述べたことについて十分な議論を尽くしてもらいたい。

京都大学大学院文学研究科准教授

1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科医療倫理学教室で専任講師を務めた後、2012年から現職。専門は倫理学、政治哲学。功利主義を軸にして英米の近現代倫理思想を研究する。また、臓器移植や終末期医療等の生命・医療倫理の今日的問題をめぐる哲学的探究を続ける。著書に『功利と直観--英米倫理思想史入門』(勁草書房)、『功利主義入門』(ちくま新書)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人)など。

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