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アルジャーノンに花束を? ダウン症の「治療」と生命倫理

児玉聡京都大学大学院文学研究科准教授
ダウン症のマウスの知力を向上する化合物を発見された。その生命倫理上の問題は何か?(ペイレスイメージズ/アフロ)

昨日9月5日、京都大学のウェブサイトで「ダウン症の出生前治療を可能にする新規化合物」という研究のプレスリリースが公表された。それによると、ダウン症の胎児を妊娠している母親マウスに研究者たちが作成した化合物を口から投与したところ、ダウン症の胎児マウスの大脳皮質の形成異常および低下した学習行動に改善が見られた。つまり、賢くなったということだ。

この研究で最も目を引くのは、「アルジャーノン(Algernon)」という名前である。これは「別の方法による神経細胞の生成(altered generation of neuron)」の略称として研究者たちがこの化合物に付けた名称だ。もちろんこの名前はダニエル・キイスの小説『アルジャーノンに花束を』にちなんだものだろう(毎日新聞の報道を参照)。

この化合物に「アルジャーノン」という名を付けた研究者たちは慧眼であり、知力を高める薬をテーマにしたこのSF小説の古典が生命倫理でもしばしば取り上げられるのと同様、今回の研究成果にも多くの倫理的問題が含まれているように思われる。下記では現時点で考えられる論点を三つ指摘したい。

1. これはダウン症の「治療」なのか?

「ダウン症の出生前治療を可能にする新規化合物」という今回のプレスリリースのタイトルは、少し誤解を招くようにも思えるので、最初にその点を指摘しておきたい。

このタイトルだけを見ると、ダウン症にしばしば伴う先天性心疾患や十二指腸閉鎖などの身体上の問題や、アルツハイマーの早期発症の可能性、精神発達の遅れ、さらにはダウン症特有の顔つきなど、ダウン症に伴うすべての症状が「治療」されるような印象を受けるかもしれない。しかし、それは誤解である。

今回の研究は、早い話が精神的発達の遅れのみを防ぐものであり、ダウン症の原因となる21番目染色体の異常による症状すべてを治すものではない。つまり、ダウン症の症状の一つである知的能力が健常者より低いという点に限って改善するものである。もちろん、現時点ではマウスでの研究のため、人で行った場合にどうなるかはやってみないとわからない(ただし、ダウン症の人の細胞から作製されたiPS細胞に対して、生体外でこの化合物を加えたところ、神経幹細胞が正常に増えたとされる)。

2. 妊婦がこの化合物を服用することは許されるか?

現時点では、妊婦がこの化合物を飲んだ場合の安全性と有効性は不明である。しかし、仮にこの化合物が人に適用しても安全であり、有効であるとわかったとしよう。その場合に、胎児がダウン症だとわかった妊婦がこの化合物を服用することは許されるべきだろうか? そうでないという意見もありうるだろう。

たとえば、本研究を取り上げた京都新聞の記事を見ると、「豊かな感情などダウン症の人の魅力は大きい。知的な発達を一概に治療対象にするべきではない」というダウン症の子のいる母親のコメントがある。一般にダウン症の人は明るいパーソナリティを持つと言われ、幸福感が高いという研究もある。とはいえ、現時点では、この化合物を投与すると明るいパーソナリティが失われるかは不明である。もしかすると、知的な発達は正常で、しかも感情面でも豊かになるかもしれない。

また、同じ記事には「ダウン症の全てを治療に結びつける必要はない」という識者のコメントもある。ダウン症の人がもつ先天性心疾患などは治療をしてもよいが、精神的な側面はダウン症の「個性」として治療の対象にすべきではないということだろう。しかし、胎児がダウン症だとわかった親の中には、先天性心疾患などの治療だけでなく、知的に正常な発達を求める者もいると思われる。実際、海外では知的発達を促進するために、未承認の薬を投与する親がいることが問題になっている。身体上の健康だけでなく、知性も向上させたいという親の気持ちは不合理と言えるだろうか。

もしかしたらこの化合物を使って知力を高めることで、感情面での豊かさや幸福感の高さが犠牲になるかもしれない。しかし、仮にそのようなトレードオフがあったとしても、ダウン症の胎児を持つ妊婦がこの化合物を服用することを禁じるべきと言えるかどうかは自明ではない。我々は豊かな感情や幸福感を重視する一方で、知性の高さも重視している。だとすれば、妊婦がその化合物を服用することは必ずしも胎児に危害のみを与えているとはいえないだろう。ここには、子どもの利益と危害を誰がどう評価するかという問題がある。

3. 「認知エンハンスメント」にも使えるのか?

最後に、アルジャーノンというこの化合物に関して気になることは、ダウン症以外の状態への応用可能性である。この化合物は、神経幹細胞の増殖を促進するものであり、今回のプレスリリースでも、アルツハイマー病やパーキンソン病や脊椎損傷など、神経細胞再生の手法開発が望まれている疾患への応用可能性が示唆されている。また、論文ではジカ熱による小頭症の治療可能性も示唆されている。これらの応用可能性が期待される点でもこの発見の意義は大きい。

その一方で、もしかするとこの発見により、まさに『アルジャーノンに花束を』でテーマとなっていた「通常以上の知性」が獲得できるようになるかもしれない。生命倫理ではこのような認知能力や身体能力の増強を「エンハンスメント」と呼ぶが、もしかすると、この化合物は、認知エンハンスメントにも使用できる可能性があるということだ。

仮に健常マウスの胎児を妊娠しているマウスにこの化合物を投与した場合、どのような効果が見られるのだろうか? もしダウン症の胎児マウスと同種の知的能力の改善が見られるとすると、通常以上の知性をもつ子どもを生み出すことができるかもしれない。つまり、通常のIQを超えた子どもが生まれるかもしれないということだ。すると、この化合物はダウン症の胎児を身籠った妊婦だけでなく、妊婦全員に選択を迫るような倫理的問題を提起することになる。さらに、成人に対しても効果があるとすれば、この研究が生み出す社会的影響ははるかに大きいことになる。

ダウン症の生命倫理に関する総合的研究が必要

実はゲノム編集を用いたダウン症「治療」の可能性もすでに海外では議論になり始めている。ダウン症については、国内では主に新型出生前診断と妊娠中絶の是非が議論になっているが、今回のような研究が登場して事態はより複雑になりつつある。

今回のような研究が実用化された場合に、政府はダウン症の胎児を妊娠した妊婦に対して「治療」へのアクセスを保証すべきか、あるいは、そもそもダウン症は病気ではないため「治療」と呼ぶことさえ不適切なのか---ダウン症をめぐるこうした生命倫理上の問題の総合的な研究が日本でも求められていると言える。(了)

京都大学大学院文学研究科准教授

1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科医療倫理学教室で専任講師を務めた後、2012年から現職。専門は倫理学、政治哲学。功利主義を軸にして英米の近現代倫理思想を研究する。また、臓器移植や終末期医療等の生命・医療倫理の今日的問題をめぐる哲学的探究を続ける。著書に『功利と直観--英米倫理思想史入門』(勁草書房)、『功利主義入門』(ちくま新書)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人)など。

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