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【光る君へ】藤原道隆は、棚から牡丹餅で栄達の道を手にしたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所 堺町御門。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、とうとう藤原兼家が亡くなり、嫡男の道隆が後継者の座を譲られた。関白になった道隆は、続けて摂政、藤原氏の氏長者になった。

 ところが、気が収まらないのが、弟の道兼である。では、道隆は棚から牡丹餅で栄達の道を手にしたのだろうか。以下、歴史物語の『大鏡』などをもとにして考えてみよう。

 寛和2年(986)、兼家は孫の懐仁親王(のちの一条天皇)を即位させるため、花山天皇を退位させようと目論んでいた。その際、大活躍したのが、子の道兼である。当時、花山天皇は愛していた女御の忯子を失い、その落胆ぶりは尋常ではなかった。

 道兼は悲しみに打ちひしがれた花山天皇に近づき、言葉巧みに出家を勧めた。花山天皇が出家の意思を示したので、道兼は闇夜に紛れて内裏から元慶寺(花山寺)に向かったのである。

 道兼は「私も一緒に出家します」と言っていたが、それは真っ赤なウソで、花山天皇の出家を見届けると、そのまま寺を抜け出したのである。まさしく、道兼の大手柄だった。

 その後、兼家は道隆、道兼ら我が子を昇進させた。正暦元年(990)、兼家は病没した。亡くなる前の兼家は、いろいろと意見を聞き、道隆を後継者に定めた。しかし、道兼は大いに落胆し、父の喪中だったにもかかわらず、酒宴を開いたというのである。

 たしかに、先述のとおり、道兼は花山天皇が退位した際の功労者であり、「汚れ役」を見事にやり遂げた。一方で、道隆は弟の道綱とともに、東宮御所へ宝剣と神璽を運び入れたにすぎない。ちょっとした裏方である。普通に考えると、あまりに道兼が気の毒といえるかもしれない。

 しかし、花山天皇が出家した経緯は、歴史物語に書かれたもので、あまりにドラマチックである。本当なのか、疑わしいと思えなくもない。道兼の役割が大きかったにしても、実際は藤原一族の連携プレーによって、花山天皇を退位に追い込んだといえよう。

 念のために確認すると、道隆と道兼の母は同じである。母親の出自が劣る場合、嫡男であっても著しく能力が劣る場合は、次男以下が後継者となる可能性もあるが、今回はそういうことに該当しなかった。したがって、道隆は棚から牡丹餅で栄達の道を手に入れたというよりも、順当だったのではないか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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