樋口尚文の千夜千本 第213夜『瞳をとじて』(ビクトル・エリセ監督)
人生と世界の謎を思索するサスペンス
ビクトル・エリセの31年ぶりの長篇作品には、いい意味で拍子抜けさせられた。今年で84歳になるエリセはこの先そうそう何本も撮れるというわけにもいかないだろうから、この31年ぶりの作品ともなると、さぞや張りつめた堅牢なる作品なのだろうと構えてスクリーンにのぞんだら、これが毎日気さくに会っている隣人がいつもの挨拶をしてきたような、驚嘆すべき軽やかさ、しなやかさに満ちた作品なのであった。むだに力んで観はじめた私は一気にほぐされて、澄明でシンプルな物語に引き込まれた。
次の驚きは、この作品が穿った意味ではなく、本当にごく素朴に面白くサスペンスフルであったということだ。もちろんこれまでにもエリセは、凝縮された映画は撮っていたが難解な映画を撮ったためしはなく、子どもだってじゅうぶんに楽しめたことだろう。だが本作はそのうえに、物語が文字通りのサスペンス仕立てなのだ。22年前に自作の映画撮影中に失踪した人気俳優を探して、その作品の監督がテレビのいわゆる「公開捜査」番組に出る。こんな導入部だけ覆面で見せられたら、誰がこれをエリセ作品と言い当てられようか。
だが、そこが実に面白いところで、そういったテレビ番組が万国共通で下世話に組み上げてしまう俗なるサスペンスが、以後この監督が俳優らしき人物のいどころをつかみ、本人に接近してゆく過程においてじわじわと希薄化され、そもそも謎は解かれるべきなのかという逡巡や迂回にさえ立ち至る。そして、もしかするとこれで決定的に謎は解明されるのではという鍵を握るのが実はとある「映画」で、ついにその「映画」と相対することになった核心の人物が、さていかなる反応を見せるのか。その結果の表現はさすがにエリセの面目躍如たるところで、本作をぐんとエッセンシャルな映画の高みに引き上げた。
事ほどさように結末部まで本作が広義のサスペンス作品であることには変わりないが、その人間、人生にまつわる謎が映画という表現の「決定不可能性」にも絡めてどのような決着を見るのか、あるいは見ないのか。観る者をそういった境地に導いてくれる豊饒な本作は、重ねて言うが驚嘆すべき軽やかさをみなぎらせている。その若々しさとともに、エリセ一流の「美少女」をめぐるモチーフもなかなか蠱惑的なかたちで健在である。
「美少女」と言えば思い出す『ミツバチのささやき』は、日本では干支一巡ぶんくらい遅れてシネ・ヴィヴァン六本木で初公開されたために80年代の映画だと錯覚している向きもあるかもしれないが、あれは1973年の作品である。そこで主演していたアナ・トレントが本作で時をこえてエリセ作品に帰還するという「まさか」が起こっているのだが、その「事件」とてあまりにも本作では何気ない。ここまで泰然としたエリセにあっては、人生の謎は謎のままでよいのかもしれず、いやむしろ謎こそが世界なのかもしれない。そしてその一部である映画という表現もまた然り、ということだろうか。