【戦国こぼれ話】戦国時代、高野山は戦国大名が死を命じられていく場所だったという、悲惨な真実
高野山ではコロナ後を見据え、観光施設などの入場や決済も非接触で行う新サービスを開始するという。一方、戦国時代の高野山は戦国大名が死を命じられていく場所だった。その辺りを確認することにしよう。
■佐久間信盛(1528?~1582)
佐久間信盛は織田信長の重臣として重用され、各地を転戦した。信長の信頼が厚かった信盛は、当時、抗争を続けていた大坂本願寺攻略を命じられた。これが不幸のはじまりだった。
大坂本願寺は寺院であったが、周囲は頑丈な石垣で囲まれ、まさしく難攻不落だった。いかに信盛の力をもってしても、容易に落とすことは叶わなかった。これには、信長も業を煮やした。
結局、天正8年(1580)閏3月、大坂本願寺は信長に屈した。しかし、信長は信盛の不甲斐なさに怒りが収まらなかった。そこで、信盛に突き付けたのが、有名な「19ヶ条の折檻状」である。
信盛は5年もの大坂本願寺攻略で、まったく成果を挙げていなかった。信長は世間が不審に思っていることは疑いなく、筆舌に尽くし難いという。信盛は大坂本願寺に調略を行うなど努力せず、ただ漫然と対処していた。
信長は信盛を取り立て、三河など7ヵ国の武士を与力として付けるなど厚遇したが、この体たらくだった。
また、信盛は家臣に加増をせず、新しく家臣を召し抱えることもなく、蓄えに執心してけち臭く、武篇道に沿った行動をしていなかった。信盛は信長に口答えや言い訳もしていたという。
この直後、信長の命により、失脚した信盛は長男・信栄とともに高野山(和歌山県高野町)へ向かい、出家の生活を送ることになった。信長は信盛に見切りをつけ、「使えない」と判断したのだ。
翌年、信盛は紀伊国熊野で非業の死を遂げた。なお、信盛は十津川(奈良県十津川村)の温泉で病没したという異説もある。
■豊臣秀次(1568~1595)
豊臣秀次は豊臣秀吉の養子で、大いに将来を嘱望されていた。天正19年(1591)12月、秀次が秀吉から関白の座を譲り受けたのは、その証であろう。しかし、その直後から秀次の将来に暗雲が垂れ込めた。
文禄2年(1593)8月、秀吉に実子(のちの秀頼)が誕生したのも、一つの理由だろう。やがて、秀吉と秀次との間に少しずつ溝が生じたようである。
文禄4年(1595)7月、秀吉は突如として、秀次に高野山行きを命じた。その理由については諸説あり、詳細はこちらにまとめているので、参照いただきたい。
秀次が高野山で切腹したのは、同年7月15日のことである。その後、秀次の妻らも粛清され、大量の遺骸は穴に捨てられた。そこには首塚が設けられたが、「畜生塚」「秀次悪逆塚」と呼ばれた。
■まとめ
ここで取り上げた人物は非業の死を遂げた者ばかりであるが、北条氏直などのように死を免れた大名がいたのも事実である。しかし、高野山行きを命じられた大名は、恐怖で体が震えあがったに違いない。
一方、高野山には多くの大名の墓がある。コロナがやや収まってきたようなので、感染対策を施したうえで、訪ねてみるのもお勧めである。