一介の若手サラリーマンが辞表を出したワケ。「僕、プロ野球チーム創りますんで」。
もう四半世紀も前のことだ。アメリカ北西部の小さな町のマイナーリーグを訪ねたことがある。ネット裏にしかスタンドのない小さな球場で、大方のファンはスタンドの先に広がる土手に寝転がってスープパンをすすりながら、ルーキーたちのプレーを見ていた。試合前、地元チームのベースボールカード片手に球場にやってくる選手を待っていた私に、球団スタッフは私からカードを取り上げ、このカードの選手は彼、こっちはあの選手と、選手がやって来る度、サインをもらうべき相手を教えてくれた。
大柄な中年男がゲートをくぐって来るのを見つけたそのスタッフは、一枚のカードを私に示した。
「彼がオーナーだよ」
ただ一枚ユニフォーム姿でない自分が映ったそのカードに、そのオーナー氏は野球ボールをあしらったサインをして私に返してくれた。カードに映る彼の表情は誇りに満ちていた。片田舎の事業家でも、プロ野球チームを所有できるところに私はアメリカン・ドリームを感じたものだった。
今では、値がすっかり上がってしまったマイナーリーグ球団は投資グループの買収対象になってしまい、事業家ひとりで手を出せる代物ではなくなってしまったが、この日本で、一介のサラリーマンから身を起こし、プロ野球球団のオーナーになってしまった男がいる。
脱サラしてプロ野球チームのオーナーになった男
「プロ野球チーム作るんで、会社辞めます」などと入社6年目のそろそろ中堅になろうかという部下が辞表を提出すれば、大方の上司は腰を抜かすだろう。残業のし過ぎで精神が参ってしまったのではなかろうかと、自らの管理責任を気にする者もいるかもしれない。
山根将大が、そう言って大手運送会社に辞表を提出したのは4年前の夏のことだった。
きっかけは東日本大震災だったと山根は言う。大学を卒業して入社1年目に故郷茨城を含む関東・東北地方を襲った大地震は各地に大きな爪痕を残した。新人サラリーマンの身ながら、故郷の復興に何かしたいと考えていた山根が出会ったのが、配属地の長野を本拠とする独立リーグ球団、信濃グランセローズだった。田舎町の球場で行われていたおらが町のプロ野球チームの戦いぶりを見ながら、自分の故郷・茨城にもこういうチームがあればいいのに、漠然とそういう思いが頭をもたげてきた。
その思いが、目標に変わったのは、その翌々年のことだった。被災地である東北をフランチャイズとする楽天イーグルスが、スーパーエース・田中将大擁して日本一の栄冠を勝ち取ったのだ。歓喜に沸く被災地の人々を目の当たりにして、地域に根差したプロ野球チームのチカラを思い知らされた山根は、茨城にプロ野球チームを作ることを志すことにした。
しかし、いくら小規模とはいえ、プロ野球球団の設立など、一介の若手サラリーマンの手に負えることではない。山根の当初の目標は、茨城にできるプロ野球球団のスタッフとして働くことだった。だが、肝心のチームがかげもかたちもない。
「だから電話したんです。茨城に球団ができる予定はありませんかって」
はじめは故郷に球団ができれば転職させてもらおうと思っていたのだと山根は笑う。
「だってそうでしょう。いきなり僕がプロ野球チームなんて作れるわけないんですから」
しかし、電話口の向こうのルートインBCリーグ当局の対応は、まさに「塩対応」だった。そのような動きも予定もないという、現実がそうなのだから当たり前の対応だったのだが、何を思ったか、この青年は数か月ごとに電話をし、「幻の新球団」の設立状況をチェックしたのだ。
そうして何度もしつこいくらいにBCリーグに電話をかけ、何度目だっただろうか。意を決して、山根はリーグに自分を売り込んだ。
「僕をリーグのスタッフとして採用してくれませんか?」
だれも球団を作らないのであれば、自分がリーグスタッフとなって創ってやる。そんな壮大な志のもと、BCリーグへの転職を目論んだのだが、これも若手の採用の予定はないとつれない返事が返ってきただけだった。
ここまでくればもう止まらない。山根の夢は、いつの間にか、自分の手で新球団を故郷に創設することに変わっていた。最後の覚悟をもってかけた電話の向こうにいたのは、リーグ代表の村山哲二だった。
「実は珍しいことではないんですよ」
村山は言う。プロ野球球団を創りたいから相談に乗ってくれという電話は時々あるらしい。しかし、そういう電話の主のほとんどは、雲をつかむような自身の夢を一方的に語るだけで、村山が事業計画について尋ねると、途端に口をつぐむのであった。
「だから山根さんの場合も、最初は無理だと思っていました。ただ実際に会ってみると、しっかりした青年で、ウチの事務局にスタッフとして欲しいなとは思いましたね」
2015年4月18日、企画書を携えて新球団・武蔵ヒートベアーズの本拠地開幕戦が行われた埼玉県熊谷さくら公園野球場に現れた山根の印象を村山はこう振り返った。山根が村山と出会うタイミングがもう少し早ければ、山根はBCリーグの職員として採用されていただろう。しかし、もしそうだったならば、茨城に新球団が誕生したかどうか。
山根は、「夢」ではなく、地に足のついた事業計画を村山に提示した。そして、会社に辞表を提出。故郷・茨城に帰り球団設立に向けて動き出した。とは言っても、この時点での山根は一介のサラリーマンどころか、無職の若者。とりあえず、まずは自分で食っていかねばならないと、前職で培ったスキルを活かしてウェブ制作会社を立ち上げた。
「社長」にはなったものの、社員は自分ひとり。それでも、もともと商才があったのか、なんとか自活できるだけの売り上げを挙げることに成功した。
しかし、これだけでは球団設立など夢のまた夢。スポンサーを募るには、まず自分がもっと大きな金を回せるようにならねばならないと、もう1つ事業を始めることにした。いろいろ調べた結果、茨城で成功しそうなビジネスを発見した。
「障害者福祉施設を始めることにしたんです。200~300の業種、業態をずっと調べたんです。県外ではすごく流行っているのに、県内ではまだ需要があって供給が足りていないものは何だろうって考えると、障害者就労支援施設が水戸市内には1つしかなかったんです。だったら2つ目を立ち上げようと」
山根の商才はここでも発揮された。商才もさることながら、自身の事業で人々を元気づけたい、そういう山根の姿勢に多くの人が共感したことがビジネスの成功につながったんだろう。当初山根を含め8人でスタートした会社は、またたく間に、6事業所、従業員250人の規模に成長した。
それと並行して、山根は球団立ち上げに奔走した。まず接触したのは、BCリーグで選手としてプレーしていた中学時代のチームメイト、小野瀬将紀だった。いつの間にか縁の遠くなったかつてのチームメイトがフィールドに立ち続ける姿を見て、山根の球団設立への思いはますます強くなった。フィールドでプレーする選手集めの人材を探していた山根は、小野瀬を通じて、茨城球界では名の通った存在であった長峰昌司(元中日・オリックス)に接触、現役を引退してサラリーマンをしていた地元のスターを口説き落とし、ゼネラルマネージャーとして招いた。
突然の山根の訪問に長峰は驚いたと言う。それでも山根の情熱に、自らの奥底に眠っていた野球の虫がうずくのを長峰は抑えることができなかった。
活動がしやすいようにと、勤めていた会社を辞め、山根の会社に転職。日中は介護の業務を、そしてそれが終われば、球団設立のために動き回った。
「まあ、この先生きていて球団設立にかかわることなんてないでしょうから」
と長峰は、山根の活動に参加した理由を話すが、地元球界のスターが加わったことで、球団設立の話は大きく前進した。2018年夏、リーグ加盟が正式に決まると、スポンサーは100社に達した。
球団創立からさらなる夢の続きへ
そして、今年の4月6日、ひたちなか市民球場に3056人を集め、茨城アストロプラネッツは開幕戦を迎えた。スタンドにはかつて勤めていた会社の上司、同僚の顔もあった。
「大入り」のスタンドとフィールドを目の前にして、不思議と感慨は湧かなかったと山根は言う。一介のサラリーマンから一念発起、球団設立のために起業し、資金を集め、4年間がむしゃらに走り続けたせいか、荷を下ろした安堵感が先に湧いてきたのだろう。
山根はなおも走り続ける。球団設立につぎ込んだ資金は2000万円。本業の社内には賛成意見だけがあるのではないことは百も承知だ。多数の従業員を抱える実業家としては、どの事業も収益を出すものにせねばならない。
球団設立によって、3つの会社のオーナーとなった山根だが、報酬は大した額ではないと笑う。
「元の会社の同期の方がもらっていますよ。今もポテンシャル高い方々に来てもらわないといけないので、僕より給料の高いスタッフはたくさんいますよ。まだ独身なんです。だから今の僕には、事業をできるお金しか必要ないので」
大企業のサラリーマンという身分を捨てた山根だが、金では買えないでっかい夢を手にしようとしている。
山根のジャパニーズ・ドリームは今始まったばかりだ。
(写真は筆者撮影)