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【深読み「鎌倉殿の13人」】無念にもはかなく散った源頼朝の兄弟5人

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
若き頃の源義経は、牛若丸と称された。(提供:アフロ)

■源義平(1141~60)

 義朝の長男。久寿2年(1155)、叔父の義賢(義仲の父)を攻め殺し、「鎌倉悪源太」と称されるようになった。「悪」には「悪い」という意味もあるが、この場合は「強い」と解すべきだろう。

 平治元年(1159)に平治の乱が勃発すると、義平は父の義朝に従って戦い、大いに奮戦するが、敗北。美濃を経て、北陸に逃亡した。その後、京都に潜入し平清盛を殺そうとしたが、平氏方の難波経房に捕縛され、翌年六条河原で斬首された。

 斬首される際、義平は経房に「雷となって汝を殺さん」と言い、のちに経房は雷に打たれて死んだというエピソードがある。

■源朝長(1144~60)

 義朝の次男。「器量ことがら、ゆふにやさしくおはしければ」と『平治物語』に書かれているとおり、性格の優しい人物だったといわれている。

 平治元年(1159)の平治の乱で、義朝が敗北すると、朝長は義朝とともに東国へと逃亡した。しかし、朝長は逃亡の途中で、比叡山の僧侶の矢が左股に当たり、歩けなくなってしまった。そのため、美濃国青墓(岐阜県大垣市)で自害したのである。

■源希義(?~1180)

 義朝の五男。平治元年(1159)の平治の乱で義朝が敗死し、その後、捕らえられた希義は土佐国に流された。その居所は、介良荘(高知市)だったといわれている。

 治承4年(1180)、源頼朝が挙兵すると、希義は平氏から追っ手を差し向けられた。しかし、平氏の追及から逃れられず、持仏堂で自害したという。なお、『吾妻鏡』は希義の死を寿永元年(1182)とするが、疑問視されている。

■源範頼(?~1193)

 義朝の六男。三河国蒲御厨で誕生したので「蒲冠者(かばのかんじゃ)」と称された。治承4年(1180)、源頼朝が挙兵すると、範頼も従った。

 以後、範頼は弟の義経とともに平氏追討に全力を尽くし、文治元年(1185)に平氏は滅亡した。その後、範頼は九州で戦後処理を行い、鎌倉へ戻った。しかし、頼朝は義経と対立し、ついに奥州平泉で討った。

 これを見た範頼は、頼朝に恭順の意を示し、叛意がないことを示し続けた。しかし建久4年(1193)、範頼は頼朝から謀反を疑われ、伊豆修善寺(静岡県伊豆市)で殺害されたのである。

■源義経(1159~89)

 義朝の九男。平治元年(1159)の平治の乱で義朝が敗死すると、捕らえられた義経は鞍馬寺(京都市左京区)に預けられた。そのとき、天狗から剣術を習ったという逸話がある。

 治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、義経もただちに従った。その後、義経は各地を転戦して平氏討伐に貢献し、文治元年(1185)に平氏を滅亡に追い込んだ。

 しかし、義経は三種神器のうち宝剣を持ち帰れない失態を犯し、ついに頼朝と不和になる。あろうことか義経は、後白河法皇から頼朝追討の宣旨を得るが、義経の頼朝討伐の目論見は失敗に終わり、奥州平泉を目指して逃亡することになった。

 義経は奥州に潜んでいたが、庇護者の藤原秀衡が亡くなると事態が急変する。文治5年(1189)、義経は頼朝から義経追討の命を受けた泰衡(秀衡の子)に攻められ、平泉で討ち死にした。

 なお、義経が生き延びて中国大陸に渡り、のちにチンギスハンになったというのは嘘である。

■むすび

 このように頼朝の兄弟は、おおむね悲惨な最期を迎えた。もし、この中の何人かが生き残ったならば、鎌倉幕府は源氏の子孫がもう少し長く、将軍職を続けられたかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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