【川上哲治と落合博満の超打撃論その3】「昔も今も、一流打者になるための条件は何ひとつ変わっていない」
ボールが止まって見えるという体験で自信をつけた川上哲治の赤いバットからは、弾丸ライナーが次々と生み出される。1950(昭和25)年のシーズンを、後半に巻き返して打率.313で終えると、翌1951年は.377という当時のシーズン最高打率で3度目の首位打者を獲得。以後、1956年まで6年連続で打率3割2分以上をマークし、1953、1955年には首位打者にも輝く。
「この頃の私は、ボールを真芯でとらえるということに関しては絶対の自信を持っていた。野手がいいところを守っていなければ、それこそ打率10割でも不可能ではないという心境だった。三振するなんて、最大の恥だと思っていましたよ」
自らが打撃を極めたという実感は、日々の試合の中でも確認できたという。相手投手が最高の投球を披露し、チームメイトたちが「今日は打てない」と悲鳴を上げた時でさえ、打席に立ってみると「まったく凄いとは感じなかった」という状態が数試合続く。これがシーズン中に何度か体験できるのだ。それは、1951年から6年間で3度の首位打者獲得という実績として球史に刻まれた。
川上は、見事に神の領域に足を踏み入れた。だが、裏を返せば、そんな偉大な打者ですら6割強は凡打に倒れ、首位打者のタイトルさえ独占し続けることは叶わない。なぜなら、ゴルフのように止まったボールを打つのではなく、相手投手が打たせまいという気持ちを込めて投げてくるボールに挑むからだ。わかり切ったこととはいえ、バットを振るという作業はかくも奥深いものなのである。
川上は続ける。
「ボールが止まって見える状態というのは、実は誰にでも体験できると思う。実際、私が知っているアマチュア選手の中にも、そんな体験を語る人がいた。打撃を極めるという作業は、その先、つまりボールを止めるというような体験で培った自信をもとに、マウンドから飛んで来るボールを打ち返す感性を研ぎ澄ませていくことでしょう。これは、簡単なようでなかなか困難なものですよ」
川上が「極めた」と認める7人の打者
「私が監督として接したON(王 貞治と長嶋茂雄)も、それを見事に極めた。王は一時、『ボールの縫い目が見える』と言っていたしね。あとは、左打者なら張本 勲、右打者では落合博満ですね。新井宏昌もそれに近い状態を体験していると思う。イチローも素晴らしい打撃を見せるけど、新井は打撃コーチとしてイチローに少なからず影響を与えたんじゃないかな。結局、何かを極めようとしたら、考えるよりも実践してみるしかない。何度も何度も繰り返して打ち込み、自分の技を作り上げる。これが一番の近道。『論より証拠』ですよ」
昨今のプロ野球選手は、川上の時代と比べれば遥かに恵まれた環境でプレーしている。だが、打撃を極めるためには、一本のバットとそれを振るスペースさえあればよい。最も必要なのは、極めようとする強い意志を持った自分であり、大袈裟な設備や投資ではない。だから、「昔も今も、一流打者になるための条件は何ひとつ変わっていない」と川上は結ぶ。
最後に、川上が理想とする打撃、ダウンスイングについて語ってもらった。
「アッパーで振ると変化球にはついていけるが、ミートポイントが近くなるから速球には詰まってしまう。ダウンスイングなら強くバットが振り抜けるし、ミートポイントが前(投手寄り)になるから打球が遠くへ飛ぶ。私が若い頃に見たベーブ・ルースやルー・ゲーリッグのスイングも、振り上げるようなフォロースルーだからアッパーに見えるが、インパクトまでは振り下ろすダウンだった。
私自身の経験と、指導者として多くの選手を見てきた目から言えば、やはりダウンスイングが理想でしょう。ただし、私自身はバットを振り出す際にグリップが下がっていたから、最後までダウンスイングができなかった。低目のボールには強かったが、内角の速球には詰まらされていたねぇ。まさに『テキサスの哲』でしたよ(笑)」
打撃の神様は、視線の先に現役当時の苦楽を映し出しながら、自らが神の領域に最も近づいた“人間”であったことを告白した。