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【戦国こぼれ話】近世初期の半沢直樹??残念ながら「倍返し」が叶わなかった木村重成。

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪城の天守。豊臣家は大坂の陣で奮闘したものの、無念にも滅亡した。(写真:アフロ)

■近世初期にもいた半沢直樹

 ドラマ「半沢直樹」がおもしろい。「倍返しだ!」というセリフもさることながら、主人公の半沢直樹が重役、社長、国会議員を相手にして、決して屈することなく立ち向かう姿は、大いに共感するところがある。

 ところで、近世初期に大御所の徳川家康に堂々と立ち向かった武将として、豊臣家の家臣・木村重成が存在する。いったい、どういう人物だったのだろうか。

■豊臣方のヒーロー

 大坂の陣における豊臣方のヒーローといえば、木村重成が有名である。老獪な徳川家康とは対照的な若武者であり、和睦交渉の席では凛とした態度で一歩も退かなかったこと知られる。

 木村重成は、常陸介重茲(しげこれ)の子として誕生した。生年は不詳。父は豊臣秀吉に仕え、各地を転戦した。天正13年(1585)には、越中国府中に12万石を与えられている。一連の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)でも軍功が認められ、山城国淀に18万石に加増のうえ移された。まさしく順風満帆であった。

 ところが、文禄4年(1595)に豊臣秀次事件(秀次が謀反の嫌疑を掛けられ、秀吉に切腹を命じられた事件)が起こると、重茲は秀次を弁護したとのことで罪を問われ、秀吉から切腹を命じられた。同時に長男・高成や娘も巻き添えとなり、不幸な死を免れなかった。悲惨な結末に終わったのである。

 このとき重茲の妻・右京大夫局(宮内卿局)は、いったん重成とともに近江国に逃れたが、のちに許され豊臣秀頼の乳母となった。そのような事情によって、重成は幼少時から秀頼に仕えたといわれている。その後、重成は長門守を称した。

■大坂の陣における和睦交渉

 慶長19年(1614)10月にはじまった大坂冬の陣において、重成は今福の戦いなどで活躍した。豊臣方と徳川方に和睦交渉が開始されると、重成は豊臣方の使者として重責を担った。当時、重成は十代の青年であったといわれているが、堂々とした立ち振る舞いは徳川方からも称えられた。

 『大坂冬陣記』によると、慶長19年12月、茶臼山にある家康の本陣で和睦交渉が行われた。豊臣方からは木村重成と郡主馬(こおりしゅめ)が実質的な交渉役を務め、織田有楽・大野治長の使者が随行した。起請文は牛王宝印(ごおうほういん)の裏に誓紙として書かれ、家康の血判が捺されたという。起請文の誓約内容は、次の5点である。

 1.籠城した牢人の罪は問わないこと。

 2.秀頼の知行は、これまでと変わりないこと。

 3.母・淀殿は、江戸で人質になる必要がないこと。

 4.大坂城を開城する場合は、望みどおり知行替えを行うこと。

 5.秀頼に対して、徳川方には裏切りの気持ちがないこと。

 血判とは指を切り、その血を朱肉の代わりにして捺すものだ。ところが、起請文を見た木村重成は、家康の血判が薄いと指摘し、再度捺させたという。有名なエピソードである。弱冠十代の重成が、ときの天下人・家康に対して抗議したことは、面目躍如たるところがあった。

 家康の起請文には花押が捺されることが多く、必ずしも血判とは限らない。つまり、判というのは花押、朱印、黒印のいずれかの可能性がある。この時点で優位に立っている家康は、本当に血判を押したのかは疑問が残る。

 おそらく、この逸話は重成を引き立てるものであり、この期に及んで重成が血判の濃淡を問題にしたとは思えない。あまり無理な要求をすれば、和睦そのものが決裂する可能性があるからだ。

■破綻した和睦

 こうして重成は苦労して和睦を結んだが、翌慶長20年には破綻してしまった。同年4月にはじまった大坂夏の陣において、木村重成は約4700の兵を率い、5月6日の午前2時頃に大坂城を発った。大坂城から東に約8キロメートル離れた若江(大阪府東大阪市)に向かい、家康・秀忠軍を打つためである。若江に到着したのは、3時間後の午前5時頃であった。

 徳川方の前線には、藤堂高虎の軍勢が陣を敷いていた。重成は全軍を3つに分け、徳川方を攻めようとした。高虎は重成の軍勢が若江に着いた情報を得ると、秀忠に報告し重成の軍勢と戦った。最初こそ重成は有利に戦い、藤堂良勝を討ち取るなどした。重成の軍勢は、それ以上藤堂軍を深追いせず次の戦いに備えた。家康・秀忠の首を取っていないため、大坂城へ戻ることはしなかったという。

■無念の討死

 その直後、井伊直孝の率いる軍勢が徳川方の戦線に加わり、重成の軍勢に攻め込んだ。しかし、重成の軍勢は撃退し、激怒した直孝は自ら軍勢を率いて突撃した。早朝から重成の軍勢は休むことなく戦ったため疲労困憊であり、劣勢は否めなかった。結局、重成は敵陣に1人で鎗を持って突撃し、無念の討ち死にを遂げた。

 重成の首は月代(さかやき)を剃って整えられ、伽羅(きゃら。香木の一種)の香りが漂っていた。家康は首を実検した際、その武将の嗜みに感服したといわれている。ただ、この話もどこまで本当かは不明である。重成の死は、武士の誉れと後世に伝わったのはたしかである。

 残念ながら、重成は半沢直樹にはなれなかったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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