織田信長は土佐の長宗我部元親に対して、本当に「四国切り取り自由」を約束したのか
高知県南国市で岡豊城跡近くで発掘調査を行った結果、長宗我部元親が建てた「瑞応寺」である可能性が高いという。こちら。織田信長は長宗我部元親と誼を通じ、「四国切り取り自由」を約束したというが、それが事実なのか考えることにしよう。
長宗我部元親が国親の子として誕生したのは、天文8年(1539)のことである。当時の長宗我部氏は土佐の統一すらできていなかったが、元親が家督を継承すると、勢力拡大に腐心するようになった。
元親は土佐国内の有力な国衆を次々と打ち破り、天正3年(1575)には土佐統一を成し遂げた。土佐統一後、元親は阿波・讃岐・伊予へ侵攻し、さらに版図の拡大を目論んだのである。
その一方で、元親は織田信長と誼を通じるようになった。当時、信長は大坂本願寺、足利義昭、毛利輝元らの信長包囲網と戦っており、一人でも多くの味方が必要だった。天正6年(1578)、信親(元親の子)は信長から「信」の字を与えられたが、これは両者の関係をよりいっそう強固にするためのものだろう(「石谷家文書」)。
『元親記』によると、元親は信長が上洛する以前から通じていたという。信親が「信」の字をもらったとき、間を取り持ったのが明智光秀だった。その際、「四国の儀は元親手柄次第に切取り候へと御朱印頂戴したり」ということがあった(『元親記』)。
つまり、元親が四国で手に入れた国は、自分のものにしてよいという朱印状を信長から拝領したというのである。とはいえ、信長が元親に与えたという朱印状は残っていない。
『元親記』は、比較的信頼度の高い史料であるといわれている。信長は元親に対して、本当に「四国切り取り自由」の朱印状を送ったのだろうか。
信長は諸大名に対して、空手形と思しき朱印状を発給した事実を確認できる。天正8年(1580)9月、信長は中川清秀に中国方面の備後・安芸を与えるという朱印状を発給したが(「中川家文書」)、当時はまだ毛利氏が両国を支配していた。
その前年、信長は大友義統に周防・長門を与えるという朱印状を発給したが(「大友文書」)、やはり当時はまだ毛利氏が両国を支配していた。
その流れから言えば、信長が元親に「四国切り取り自由」の朱印状を送った可能性は高い。しかし、それは元親を奮い立たせるためであって、実際に四国統一が実現した場合、信長が国割りをするつもりだったのではないだろうか。
信長は約束を破ったことになるが、そういう意識はなかったかもしれない。信長は元親を従えていたのだから、言うことを聞くに違いないと考えた可能性がある。しかし、信長の行ったことは、誤解を招いた。
おそらく信長は、元親に土佐本国と阿波南部をとりあえず与え、残りの国をどうするのか考えるつもりだったのかもしれないが、元親は実力で獲得したので強く反発した。
その後、斎藤利三(光秀の家臣)が間に入り、元親に自制を求めたので、元親の態度も徐々に和らいだ。しかし、信長は許さず、子の信孝に四国侵攻を命じたということになろう。