「Kony 2012」はなぜ拒絶されたか
ウガンダ内戦と子どもたち
アフリカ中央部のウガンダで、反政府勢力「神の抵抗軍(LRA)」の蛮行を告発し、その首謀者であるジョゼフ・コニー司令官の拘束を訴える短編映画「Kony 2012」が上映されたものの、現地のウガンダ人たちから強い抗議を受けて中止に追い込まれました。
LRAはウガンダ北部に多く暮らすアチョリ人を中心にしたゲリラ組織です。1988年にその実権を握ったコニー司令官は、旧約聖書の十戒に基づく神権政治の樹立とアチョリのナショナリズムに訴え、ウガンダ政府と戦闘を繰り返してきました。その過程で、ウガンダ政府と潜在的に対立する隣国スーダンから軍事援助を受け、ウガンダやスーダン、コンゴ民主共和国(DRC)で活動してきました。コニー司令官およびLRAへの国際的な批判は主に、子どもを利用する点に向けられています。
1990年代以降のアフリカの内戦では、村々が襲われ、子どもがさらわれ、男の子は兵士に、女の子は性奴隷にされる事態が頻発しました。少年兵は世界中で約30万人いるともいわれますが、20年以上続くウガンダの内戦では2万人以上がさらわれたともいわれ、とりわけ深刻です。多くの場合、子どもたちは誘拐されるときに親など近親者を殺され、そのうえで命令に従順な兵士や性奴隷に仕立てあげられます。また、自分たちの勢力圏に近いエリアでは、LRAに対する恐怖心を植えつけるために、不必要な残虐行為を頻繁に行っており、最近では2008年12月にDRCのファラジェで、幼児を含む住民約480名が虐殺され、200名以上が拉致されました。コニー司令官をはじめLRA幹部たちには、2005年に国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が発行されています。
『Kony 2012』への拒絶
ウガンダ内戦での子どもをとりまく状況を告発したのが、2006年に公開されたドキュメンタリー映画「インビジブル・チルドレン」でした。3人のアメリカ人大学生が、2003年にウガンダで撮影した映像をもとに作成したもので、彼らはその後NPOを立ち上げ、子どもたちの社会復帰に取り組んできました。そして、今年3月、2012年中にコニー司令官を拘束するべきだと訴えるキャンペーン『Kony 2012』をスタートさせ、ユーチューブなど動画サイト上で同名の短編映像を公開しました。
ところが、冒頭で言ったように、『Kony 2012』は当のウガンダ人たちから拒絶されたのです。AFPの報道によると、3月13日、LRAの拠点に近い北部リラで行われた野外上映会には、LRAによって手足を切断されるなどの被害を受けた人々をはじめ、数千人の観客が集まりました。しかし、開始からすぐに観客が怒り出し、投石などを行ったため、上映会は中止され、その他の地域で行う予定だった上映会も中止になったのです。
果たして、これはなぜなのでしょうか。
私も『Kony 2012』を観ました。製作者たちの言いたいことは、大よそ以下の三点に集約できると思います。
- 国際社会から見放されているアフリカの小国の内戦にも目を向けるべきである
- コニー司令官を早期に拘束すべきである
- 戦闘の犠牲となっている人たち、なかでも子どもへの支援をするべきである
個人的には、これらの言い分に異論はありません。
しかし、問題は、なぜそれが現地の人たちから拒絶されたのか、ということです。AFPによると、上映会に集まった人たちは、映画の内容について「無神経で、ウガンダ北部の過去の姿しか描いていない」、「なぜ、アメリカの白人の子どもたちを映して、地元の人びとが置かれた真の現状を伝えないのか」と口々に批判したということです。
「弱い立場の人」をどう捉えるか
正確なことは、映画を観て怒った彼らに直接聞くことでしか分かりません。しかし、『Kony 2012』を観ていて、思い当たることは幾つかありました。
第一に、前面に出てくるのがアメリカの白人の子ども、しかも製作者の子どもである点には、私も違和感を覚えました。冒頭で、製作者の子どもがアメリカのきれいな病院で生まれ、看護師たちに祝福されながら産湯につかる様子を描き、「この国で生まれたこの子は大事にされるだろう」といった主旨のナレーションがあり、その後2003年当時のウガンダの映像に進みます。製作者の子どもの誕生シーンが、ウガンダの子どもたちの状況との対比を暗示するイントロであることは明らかです。
平均的に、アメリカや日本などの先進国で生まれた子どもの方が、アフリカの貧困国で生まれた子どもより、健康状態や教育水準において恵まれるのは事実かもしれません。また、先進国で生まれた子どもが、兵士や性奴隷としてゲリラに搾取されることは、ほぼ皆無でしょうし、そういった問題を告発して先進国の視聴者から共感を得たいのなら、自然なイントロかもしれません。しかし、両者の対比を敢えて強調することは、いわば対等の視線ではありません。
ハンナ・アレントは、個人が自らと他者を結びつけるエネルギーについて、以下のように分類しています。「連帯(solidality)は活動を鼓舞し導く原理の一つであり、同情(compassion)は情熱(passion)の一つであり、哀れみ(pity)は感傷(sentiment)の一つである」。このうち、アレントによると、「同情」は人間同士の間の距離を取り除くもので、他者の苦悩を我が物とすることですが、それであるが故に相手を認識したうえでなければ発揮できません。つまり、それぞれ特殊な個々人に対して生まれる感情であり、一般化することができない、言い換えれば不特定多数の相手には発揮できない能力である、というのです。
これに対して、「連帯」と「哀れみ」は人間の間の感情的距離は保つという点で共通しますが、両者は「弱い人々」の捉え方において決定的に異なります。「連帯」は、例えば「人間の尊厳」といった誰にでも適用できる利害あるいは理念で、複数の人々を、つまり強い人も弱い人も、豊かな人も貧しい人も概念的に包括し、一般化します。これに対して、「哀れみ」は「運と不運、強者と弱者を平等の眼差しで見ることができない」。
『Kony 2012』の製作者たちが、この三つのいずれに駆られたかは定かでありませんが、不特定多数の人に訴えかける内容で、さらに「アメリカの白人の子どもとウガンダの子ども」の対比は両者の差異を強調するものであることから、少なからず「哀れみ」が強いように感じられます。しかし、往々にして先進国の人間は、特に欧米人は忘れがちですが、アフリカ人も当たり前の人間です。そして、およそ自尊心のある人間にとって、「自分たちが哀れまれている」と思うことが愉快であるはずはありません。その映像が、無意識のうちに自分たちの優位を確信している先進国の人間だけを相手にするだけならいざ知らず、当のウガンダ人たちから「無神経」と言われたことは、故のないことと思います。
「分かりやすい認識」と現実のギャップ
第二に―第一の論点に関連するところがあるのですが―物事をあまりに綺麗に色分けしているところが、現地の人たちの反感を買ったと考えられます。子どもが誘拐され、兵士や性奴隷として搾取される。その過程で多くの人間が殺され、手足を切断され、死体をばらまかれる。そのような状況を見過すことは許されないでしょう。『Kony 2012』の製作者たちが批判するように、域外の国は自分たちの利害に関わらないところには関与しないわけで、それがこの状況を延命させている側面も否定できません。ただし、そのような悲惨な状態を告発することと、「子ども=被害者」「コニー=極悪人」という単純な色分けでストーリーを展開させることは話しが別です。
少年兵の問題で特に深刻なのは、子どもが被害者であると同時に加害者になる点です。近親者を殺されてさらわれた点で彼らは被害者ですが、ゲリラ組織で訓練を受け、やがてかつて自分が受けた被害を他者に及ぼすことになるのです。製作者たちはもちろん、そのことをよく知っているでしょう。しかし、この問題を全く知らない人に知らせるという目的のためか、少なくとも映像からは「子どもの二面性」についての言及はほとんどなかったように思います。ポスト・コンフリクトの社会では、このような矛盾と日々向き合いながら、それでも現実と折り合いをつけて生きていかざるを得ません。
この矛盾を捨象して、「子どもは被害者」「コニーさえいなくなればいい」といった主旨の、極めて単純なキャンペーンで自分たちの国のことを語られることが、ウガンダの人たちの反発を招いたことは、後知恵ですが、当然といえば当然です。まして、製作者が4-5歳になった自分の子どもに、その顔写真をみせてコニーを「悪人」と教え込むシーンには、私も首を傾げざるを得ませんでした。
コニー司令官やLRAを擁護することは全くできませんし、その気も全くありません。しかし、世の中というものは、定規で引いたように綺麗に割り切れるものではなく、色んな矛盾を抱え込んだ、いびつな物です。もちろん、それを綺麗にしていく努力は必要でしょうが、それは目に付く異分子を排除すれば済むというものではないはずです。それでは、さっきの「子どもの二面性」も、「NRMの二面性」も、あるいはその現実の中で生きていかざるをえないウガンダの人たちの苦悩も、全く素通りすることになります。「真の現状を描いていない」と言われたことも、これまた当然ということになります。
「哀れみ」の垂れ流しは誰のため
製作者たちの善意を疑うものではありません。しかし、善意だから全てが許されるわけでないことは、言うまでもありません。
『Kony 2012』の製作者たちは、動画だけでなくソーシャルネットワークが人に働きかける有意性を強調していました。他人の不運に心を痛める感傷そのものは、自然なものだと思います。そして、映像のもつ力は非常に大きいと思います。しかし、「哀れみ」の感傷を剥き出しで垂れ流すことは、感傷の無限増幅をもたらします。感傷そのものは、それぞれの特定の個人に向けられるものでなく、不特定多数の一般的なものに向けられがちです。言い換えれば、単純化されたイメージとしての「犠牲者の苦悩」に、自らを埋没させることになりがちです。先ほどのハンナ・アレントの言葉を借りれば、「哀れみは不運が存在しないところでは存在することができない。・・・・・・さらに、哀れみは一つの感傷であるために、人は哀れみのために哀れみを感じることができる」。それは実際の個別の犠牲者たちを一人の人間としてでなく、ある種のキャラクターとして認識することに他ならず、対象となる人にとって無礼であるだけでなく、問題解決としては極めて乱暴なものになりがちです。
苦悩する人間、あるいはそれがある社会のあり方に変更を迫り続けることは、必要な営為です。しかし、それは「そこに自らも関わりがある」という自覚がなければ、リアリティを欠いた善意の押し付けで終わります。遠く離れた土地の出来事に理解を至らせることは大変です。とはいえ、それぬきの「哀れみ」の感傷だけで突き進んでも、そこに対等の視線がない以上、現地の人たちが拒絶されたとしても、不思議ではありません。当事者たちから受け入れられないものを、外部の人間だけが共感している。そこに、リアリティのない、イメージ化された苦悩に埋没しながらも、自分の問題とは思っていない人間の姿を見出さずにはいられません。
翻って、これは震災後の日本にも共通する課題です。被災地や、被災者の人たちのことを考えたつもりの善意や理念が、相手から受け入れられるはずだ、あるいは相手にとって善いことだという思い込みはないか。あるいは、そこに相手のことを対等の視線でみない、「哀れみ」の感傷はないか。そこに震災からの復興に関する当事者としての自覚、言い換えれば自分と相手とを包括する「連帯」はあるか。遠いアフリカの悲惨な状況を告発した『Kony 2012』をめぐる話題からは、今の日本にも重要な課題を読み取ることができるのです。