ザックの残した「間違ったアプローチ」の本当の意味
要注意!危険な”間違いの間違い”が起きないよう!
コロンビア戦終了後のザッケローニの発言が、大きくクローズアップされている。
「コンフェデレーションズカップ、ワールドカップでは間違ったアプローチを取ってしまった。戦術面ではなく、精神面を変えるべきだった」
それはそうだ。4年間かけて取り組んだ仕事の結果として、試合直後に実直に語ったものなのだから。間違いを認めた、という内容が含まれていることもあり、メディアでも大きく取り上げられることになった。
この”精神面”をこちらが間違って解釈すると、とんでもないことになる。過去4年間が無駄になるばかりか、今後も間違った方向に足を踏み入れることになる。
東洋的な文脈で、「頑張る」とか「気持ちを見せる」という話ではない。これはザッケローニの郷里・ヨーロッパのキリスト教的な「尊厳のある個」を指している。「社会(チーム)のなかで個を発揮することによって貢献しようとする個」、「そうでなければ恥ずかしいと思う個」だ。
これに関連する書籍「メッシと滅私 『個』か『組織』か?」を大会前に上梓した。タイトルははっきり言ってダジャレだ。メッシとは「個」を発揮して活躍する南米・ヨーロッパの選手。「滅私」とは、個を犠牲にしてでも組織のために戦える良さを持つ日本選手。
内容におふざけはなく、過去のワールドカップ優勝国がすべてキリスト教圏である点を挙げ、彼らが持つ強烈な「個」について描いた。筆者自身が過去に本田圭佑、岡崎慎司らに行った取材から、ヨーロッパの選手たちの自己主張、年齢による上下関係がない点、自己責任でプレーする感覚などを紹介している。少し小難しい話をすると、そのルーツは11世紀に社会に普及した教会での神に対する「罪の告白」から、「尊厳のある個」が生まれた点などを紹介した。
これまた小難しい話になるが、拙著でおおいに参考にさせてもらった阿部謹也「世間とは何か」の要旨を可能な限りコンパクトに紹介したい。
「西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲ることのできない威厳を持っているとみなされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている」
一方、日本について。
「日本ではいまだに個人に尊厳があるということは十分に認められているわけではない。しかも世間は個人の意思によってつくられ、個人の意思でそのあり方も決まるとは考えられていない。世間は所与とみなされているのである」
「個人が自分から進んで世間をつくるものではない。なんとなく、自分の位置がそこにあるものとして生きている」
要は根底にある「個人」という考え方が違う。そりゃ、ボールを蹴っても違いが出るでしょうという話だ。筆者自身がかつてドイツ10部リーグでプレーし、感じた違いでもあった。
だからこそ、重ねて言いたい。「間違い」を間違って解釈するのは危険だ。
では、ザッケローニのいう「精神的」とは何なのか。
そもそもザッケローニが日本人の「個」を勘違いしていた
コロンビア戦の前半、日本のプレーははっきりと良かった。そこまでの2戦から一転、見違えるほどに良かった。ここにヒントがある。
一人ひとりが気持ちを前面に出し、高いテンションを保ち、躍動していた。それでいて縦に行く意識が統一されいたから、連動した攻撃が見られた。
大久保嘉人も現地での取材でこんな発言をしている。
「1、2戦よりもみんな気持ちが出て良かったが、もっと早く出していれば」
ザッケローニも同様に3戦目がよくなった点を認めている。
「解決すべき課題が1戦目、2戦目にあり、その課題に関しては3戦目に応えたつもり」
大久保の「みんなが気持ちを出す」という点が、ザッケローニが掲げてきたある用語と一致した。2013年5月末の会見でメディアを相手に初めて使用し、話題になったある言葉だ。
「インテンシティ」。
プレー強度、過激さ、テンション。そういった意味だ。つまり、コロンビア戦の前半のように「テンション高く」戦うべき、ということだ。
就任以降、組織(=ビランチェ/バランス。守備だけではなく攻撃もしていくということ)を重要視してきたザッケローニの言葉に衝撃を受けた。ネガティブな意味でだ。気持ちを持てと。代表選手がこんなことを口にされる状況は明らかに好ましくなかった。
いっぽう、ザッケローニはインテンシティについて、「日本選手は技術があるのだから、これを発揮すべきだ」とも言った。
これはザッケローニが間違っていた。勘違いがあるとも感じた。
順序が逆なのだ。根底にテンションの高さがあるからこそ、勇気をもって技術が発揮できる。筆者のような草サッカープレーヤーでもそれは分かる。
ザッケローニは日本人プレーヤーにも、もう少し自国選手のような「個」があると勘違いしていたのではないか。
拙著では「イタリア出身のザッケローニは、組織がまずありきと考える日本人の『個』と、尊厳があり、社会で責任の果たせないことを恥ずかしいと考えるヨーロッパの『個』は違うと理解していなかった」という主旨のことを記した。
つまりは、最初から猛烈な「個」のあるヨーロッパ選手を戦術にあてはめることと、そうではない日本選手をあてはめることは違う。「組織」に頭が行ってしまうと、「個」が発揮しにくくなったということだ。
要は、「選手が思ったよりも言うことを聞き過ぎたのではないか」ということ。
チームが最後に見せた姿は、「組織」の強さを追求するがあまり、「個」とのバランスが取れない状況だった。ザッケローニ本人の苦悩もそこにあったのではないか。コロンビア戦後にはこんな言葉を続けている。
「ボールを失ったときには、みんなで取り戻す。この4年間、この考えを元にプレーをしてきた。チームには勇気付けるように、「もっと大胆に攻撃しろ」「強いチームにも勇気を持ってプレーしないといけない」と言ってきた」
昨年秋の欧州遠征時には「守備ではファウルを時にしてでも止めるべき」といった発言をしている。メディアは大きく取り上げなかったが、かなりの危機的状況だった。代表選手があまりに幼稚な内容を言われたのだから。「いい人」のイメージもあったザックだが、あきらかにこれは日本の選手を挑発した発言だったと思う。
組織を考えられることは日本人プレーヤーの素晴らしさだ。いっぽうでそこに頭が引っ張られると、「個」が埋没してしてしまう。
このあたりは、コロンビア戦の香川真司のコメントにも現れている。
「やはり自分たちは前に出て、勇気を持って攻守において戦わないと。それを90分やり続けないとこういう舞台では勝てない。個々の能力という意味では改めて感じました」
個か組織か。就任後からピッチ上での「攻守のバランス」を重要視してきたが、この選手個々人の中での「バランス」は上手く図れなかったか。組織を強調するあまり、自らの首を絞めていったというところか。言うことを聞きすぎた選手の問題か。あるいは超えようのない文化の壁か。
1トップは”誰か”であり続けた
では、このチームの中で「個」は存在し得なかったのか。3試合を観るに、はっきりと本田圭佑と大久保嘉人にそれを感じた。日本では時に「自己中」とまで言われてきた本田は、1ゴール1アシストで個人としては最も結果を残した。
一方の大久保嘉人のプレーぶり、発言は興味深かった。4年間、ザッケローニの構築してきた戦術のバイアスがかかっていなかったからだ。
試合翌日、「スポーツ報知」の取材に3試合を戦った印象をこう話している。
「自分たちのサッカーは何なのか?と逆に知りたい。これというのがあるのか。外から見ていた時も思ったが、ポゼッションで勝ったのは4年間でも少なかった」
いっぽうで自身に縦パスが入らなかった点についてはこうも。
「勇気の部分。みんな若いですからね。でも、すごくもったいない」
大久保からすれば「キリスト教社会の個」など知ったところではないだろうが、いずれにせよザックのいうインテンシティは発揮していた。
この大久保もプレーした1トップのポジションでも感じるところがあった。
ゴールを割れなかったギリシャ戦後、本田圭佑が「アイデア不足」と口にしていた点が印象的だった。確かにコートジボアール戦よりも攻撃の組み立ては良かったが、バイタルエリアに入ると選手間の距離が開いた。内田のクロスのみからチャンスが生まれるような状況に陥った。ザッケローニもコロンビア戦後に3戦を総括し、「距離」の問題を指摘している。
「プレーヤー間の距離があり、守備以上の問題があった。距離があることによって、MFが問題を抱えることになる。チームとしては、一緒に攻撃し、一緒に守るというコンセプトがあった」
もちろん、1人が退場したギリシャの守備陣がゴール前のスペースを埋めてきたという状況はあるだろう。一方、試合を見ながらこんなことを思った。じつは戦術のみならず、「個」の問題ではないかと。
″MFに合わせるFW″だけではなく、”「個」の強いFWがどう点を取りたいかにMFが合わせるオプション”があれば、違ったのではないか。
そこまで、1トップは固定メンバーだった2列目の攻撃を引き出す「誰か」だったのだから。
コロンビア戦では一転、大久保が1トップに入り攻撃がよくなった。本田圭佑に張り合うような「個」が1トップに入った途端に攻撃がよくなった、と書くとちょっと観念的すぎるか。
1トップに強い「個」が現れなかった。あるいは選手が言うことを聞きすぎた。ここはザッケローニの誤算か、あるいは見通しの甘さだったのではないか。柿谷曜一郎はチームに加わった当初から「周囲に合わせる」点を公言していた。それが監督の要求だったのかもしれないが。
筆者自身も大会直前、「大迫などの新戦力が出てきたことは好材料」と書いたが、これは間違いだった。「誰か」ではなんとかならなかった。ゴールという結果は出なかったものの、ザックの戦術のバイアスがかかっていない大久保が重用され、目立っていたのはちょっとした皮肉だった。これもまたザックの「個」の誤算だったのではないか。
日本代表のこれから
拙著では「日本代表の欧州化」が実は進んでいるのでないかという仮説を立てた。欧州でプレーする日本人プレーヤーが多くなったのなら起こりうることだと。実際に選手から「練習時のフィジカルコンタクト、タックルがかなり厳しくなった」といった証言も聞きだした。
そのうえで、「欧州化」か「日本化」か、どちらを選ぶべきかという問いを投げかけた。
この大会での3戦を観るに、思ったよりも「欧州化」は進んでいなかった。結果、強い「個」を持つ3カ国相手に「個」を発揮できなかったために勝てなかったのだから。
ならばどうしていくべきか。今大会で「攻撃か守備か」という問いには答えが出た。「ダブルスタンダードで十分」。攻める、と公言してもサッカーには相手がいる。コートジボアール戦で改めて伝わったことだ。ボールがなきゃ攻められない。攻める時もあれば守る時もある。これで十分だ。
次の時代は「個か組織か?」という問いをぜひ。
強い「個」を持つキリスト教文化圏には勝てないのか? 初戦のコートジボワール(この国は厳密にはキリスト教国ではないが)戦後、内田篤人のミックスゾーンでのコメントとして伝わってきた内容を目にし、あることを思った。失点のシーンを振り返った話だ。
「麻也(吉田)とモリゲ(森重真人)の2人だけの責任じゃない。あの2人で勝てないなら、日本中探してもいないんじゃないかなって僕は思いますけどね。別にフォローするわけじゃないけど、彼らより強いセンターバックで今のサッカーをできる人間っていうのはなかなかいないですから」
ああ、「個」と「組織」で揺れ動いているんだなと感じた。ヨーロッパのCBは基本的に「個人能力で守る」という傾向が日本より強い。それを知ってか、内田は個人の責任となりうる点を挙げながら、最終的には組織の責任だったと言及した。そんな考え方ができるのは、欧州でプレーする日本人ならではだろうと。
ヨーロッパ・南米勢の知らない組織力を探し出すこと。それは何なのかを解明すること。そのベースの上に、もし可能なら欧州化された「個」が載ること。
これが今後の日本代表の目指すべき点だ。まずは組織力を解明することだ。なぜなら今、多くのプレーヤーがヨーロッパでプレーする状況で「ヨーロッパが何か」を知りうる状況にあるからだ。この時代だからこそ可能なことだ。いっぽうで「個」が変化するかは今後の選手の海外移籍の動向とも関わってくるので、こればかりは予測不可能。
うーんザックがやろうとしていたことと同じか? 「個」の勘違いがなく、スタート地点から「違う」と認識できている点でより高みにいる。そう解釈したい。
世に氾濫している戦術論・フォーメーション論もいいが、次の時代はこの「個」に注目を! ここの違いに気付かないと、このゲームの本質を見失うので。戦術を構成するのは個人なのだから。ザックの遺した「精神」というのは「個」の話だ。技術じゃない、身体能力じゃない、短期的なメンタルではない、日常から持ち合わせているメンタリティ。ここがはっきりと違うんだという点を知ること。
今回の教訓を活かす意味でもこれは重要ポイントです。