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ヤマハ清宮克幸監督、退任会見「第1部」ほぼ全文。【ラグビー旬な一問一答】

向風見也ラグビーライター
会見には写真パネルを持参。(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

 ヤマハラグビー部の清宮克幸監督が1月29日、都内で退任会見をおこなった。今後は同部のアドバイザーとして堀川延隆新監督を支えながら、女性と子どもに特化した地域密着型の総合型スポーツクラブ「一般社団法人アザレア・スポーツクラブ」の代表理事としても活動する。

 早稲田大学、サントリーでも辣腕を振るってきた清宮監督は、ヤマハでは他クラブに注目されない選手の個性を活かして2014年度は日本選手権で優勝。今度の会見では「第1部」「第2部」に分け、「第1部」では2011年度以降のヤマハでの「思い出話」をした。

 

 以下、共同会見中の一問一答の一部(編集箇所あり)。

「皆様、おはようございます。かくも大勢の皆様にお集まりいただきありがとうございます。今日は私の監督退任記者会見ということで、2001年に早稲田大学の監督を始めてから合計17年の監督業務を熱く取材をしていただいたお礼と思い出話を少々。それから私の今後について皆様にお伝えしたく、お声をかけさせていただきました。よろしくお願いします。

 本当に長きにわたって皆さまと一緒にラグビー界を盛り上げようと活動してきました。私にとって皆さまは同志になります。監督としての清宮は今日をもって最後となりますが、今後ともラグビー界を盛り上げるために皆さまと一緒に行動していきたいと思っています。

 思い出話。たくさん、たくさんあって、持ち時間5分では語りつくせないなか、これだけはお伝えしたいこととしてお話させていただきます。ヤマハ発動機のお話が来たのは2010年です。もちろんヤマハはリーマンショックの影響を受け強化を縮小する。ラグビー部員はレギュラーの多くが他チームへの移籍が決まり、チームは崩壊寸前。こういう状況で就任の打診があった。その陰では、現会長の柳(弘之)さんが新しい社長に就任したことが大きくありました。

 柳さんは言いました。

『ヤマハはスポーツで大きくなった会社だ。そんな会社がスポーツを辞めて経営がうまくいくはずがない。スポーツもやる。会社の事業も回復する。そのために力を貸して欲しい』

 そう言われ、心が動きました。

 さらにもう1人、心を動かした男がいます。大田尾達彦です。監督時代の早稲田大学のキャプテンでありますが、多くの選手がチームを去るなか、彼も同様に他チームへの移籍を考えていました。他にも五郎丸(歩)、矢富(勇毅)といったヤマハで活躍する私の教え子も他チームへの移籍を考えるなか、大田尾は私にこう伝えました。

『もし清宮さんがヤマハの監督になってくれるなら、僕はヤマハに残ります。もう1度、清宮さんとラグビーがしたい』

 これは決定的な一言でした。その場でヤマハの監督を引き受ける決断をしたわけです。

 1年間は、ヤマハの監督を受けるわけにはいかなかった。サントリーの監督辞任後1年間はどこにも属さない時間を置いたうえで、ヤマハと契約をしたわけです。この1年間で翌年以降の組閣をするわけですが、私の両隣にいつも座っていた2人、覚えていますか。堀川と長谷川慎です。

 2010年度の監督だった堀川に、『堀川、おれが来年監督をやることになったから、俺の下でコーチをやってくれ』と。少し、異例なオファーですよね。堀川は私にこう言いました。『清宮さんとラグビーがしたかった。喜んでお受けします』。この日から堀川は、僕にとっての助さんですね。

 格さんは長谷川です。当時はサントリーの営業マンになって、ラグビーの世界から抜けていたのですが、会社を辞めさせて私と一緒にヤマハに行こうと。大きな人生の選択を迫ったのですが、彼は大きな決断をしてヤマハに来てくれました。

 私がヤマハの監督を辞任する大きな理由のひとつとして、そろそろ助さんに黄門様になってもらわなきゃな、という思いがありました。里見浩太朗さんが黄門様になったように。この男にしっかりとした働く場所、活躍する大きな舞台を譲りたいと思ってから、数年が経っていました。

 最初にヤマハに行ったとき1枚の写真を見つけた。今日ここに持ってきているんですけど、2002年年度にヤマハ発動機が関西リーグを優勝した時の歓喜の写真です。何とも言えない表情をしています。初めてこの写真を見つけた時、『俺は、こういう表情をした仲間たちと写真を撮りたいんだ』という思いを持ったんですね。この1枚が、僕にものすごいモチベーションを与えてくれました。

 そして、僕が就任した2011年までに、ヤマハにはこれを超える写真が1枚もなかったんです。そして2015年2月、これは私の宝物になりますが、こういう…ですね、多くのファンたちを背中に何とも言えない表情の日本一を獲った仲間たちとの写真。これがヤマハラグビー部の全てですね。この日本一は多くのトップリーグのチーム、大学のチームに『俺たちにもできる』と。ずっと強豪と言われている4チームが強豪争いを繰り返しているチームのなかに、低迷を経験した、人材、環境に恵まれないチームが4年で日本一になれた証明の写真なんです。

 これがヤマハでの一番の仕事だったのかなと思います。やればできるということを、多くのラグビーチームに伝えられたんじゃないかという思いです。

 この優勝から3位、2位、3位、3位と、『この試合に勝てばトップリーグチャンピオン!』というシーズンを数回、重ねてきました。トップリーグチャンピオンという結果を得られませんでしたが、それ以上のヤマハファミリーという仲間を監督8年で得ました。私にとって何よりの宝物です」

――苦労、達成感は。

「選手たちのレベル、質がトップレベルのチームに比べると劣るものがありました。そんな彼らにヤマハしかやらないラグビーをやり切るという大方針。『ヤマハスタイル』。これを浸透させられたことがトップ4になるための大きなポイントでした。選手たちはこの考えを100パーセント理解してくれています。外国人選手たちもです。新しく契約した外国人には『世界ではこうだ』『スーパーラグビーではこうだ』と話す選手もいますが、『それは違う。ヤマハスタイルをすることがお前のプロフェッショナル』と言ってくれるのが、モセ・トゥイアリィなどのヤマハで長くプレーした外国人選手でした。彼らも力になった。

 日本人は経験、実績もなくヤマハに入ってきた。ただ、『身長も低く足も遅い先輩たちが第一線で戦っているのを目の前で見せることが、次の選手を育てる最高のモチベーションになる』と理解し、春のレギュラー争いに絡めなくても、全然諦めることなくやってくれるのもヤマハの強さの秘訣かなと思います。

 僕のヤマハ時代の実績として、『ヤマハに行けば何とかなる。試合に出られる選手にしてもらえるかもしれない』というちょっとした都市伝説的なことが学生ラグビーの間で広まったこと。たくさんの学生がヤマハへトライアウトをしにきてくれるようになったのが 8年間の実績ですね。

 来年160センチ台のフッカーを採りました。面白いですよ。おそらく身長を見ただけではどのチームも採用をしないです。彼はヤマハらしい選手として活躍すると思っています」

――選手を選ぶうえで大切にしていること。

「強み、個性を持っていることです。これまでの採用の多くは、その一点突破です。今年の開幕戦で粟田(祥平)選手という選手が出たのですが、彼は関西学院大学で4軍だったそうですね。その4軍の選手がヤマハにトライアウトに来て、強みを見せた結果、採用されたんです。ポジションはフルバック、ウイングでした。ただ、開幕戦のスターティングで得たポジションは6番(フランカー)です。何が起こるかわからない、何が起きても驚かないということが選手の共通認識になっています。伊藤平一郎はフッカーでした。2年で3番(右プロップ)のレギュラー選手に変えたわけです。それがヤマハらしさかなと思います」

――そう思うきっかけは。

「私が早稲田ラグビーで育った人間だからかなと思います。素材に劣るものがいかにして恵まれた体格の選手たちに勝つか。それをずっと考えていく思想を――4年しか在籍していませんが――学んだからでしょう。常にその思考回路をしています。

 本当に大学生のトップ選手たちがヤマハでラグビーをしたいと言ってくれれば、そういう思想にはならないかもしれませんが、残念ながらヤマハにそういう選手たちは来ない。やはり自分たちで作っていくという風になる。それができる土壌がしっかり揃っています」

――地方チームの難しさ。やりがい。

「8年間いて一番、感じたことは、メディアとの近さです。地元の新聞社、地元のテレビ局が、非常に細かく、かつ頻繁に県内のファンに記事(映像)を届けてくれています。これは都市圏のチームではまずありえないことですね。ファンへの情報の浸透度が一番の強みかなと思っています。…弱みはたくさん、ありますけど(一同、笑い)。地方のチームの方がファミリーを作りやすいと、この8年で感じました」

――限られた戦力、環境のもとで勝つにはどんな力が必要か。

「熱いチームを作って、競争を激しく、独自性を持って、熱い言葉、強い言葉でチームを率いる。このイメージですね。そこにぶれはないですよ。自分たちが考えたプレーでも、他チームが真似をしてそれがスタンダードになったら、それを止める勇気、やらない勇気を持っています。

 トップリーグでは、ヤマハの得意なプレーを『ヤマハ』と呼んでやるチームもありますが、そうなったら僕らはその『ヤマハ』のサインを捨て、違う動きをするでしょう。

 スクラムに関してもそうです。ヤマハのスクラムというオリジナルが、スタンダードになりました。その結果、ヤマハのスクラムを完全コピーしたスクラムを組むチームも出てきましたけど、そうなったらそろそろ違うスクラムを組みにいくかな、と。そういうことを考えるのがヤマハの文化として残せたと思っています」

――長谷川慎コーチは2016年秋、日本代表に入閣しました。

「こんなに嬉しいことはないですよね。自分たちで作ったものが日本のスタンダードになるんですよ、それが誰に影響を与えたか。ヤマハの選手たちに影響を与えたんです。ヤマハの選手のプライドを作り上げた者たちの間に、絆が生まれたんですよ、それによってヤマハがより強くなった」

――静岡のファンに一言。

「私が初めて磐田の町に車で降りた時、目の前の『サッカーとトンボの町』という看板が目に入ってきました。あそこに『ラグビー』をつけてやると宣言したんです。いま、『ラグビー』が入っている。ラグビー文化が根付いた証拠です。私はヤマハの監督を辞任しますが、これからもヤマハとの関係は続きます。ファンの方にとっては、より私と話しやすくなるかもしれません。観客席で一緒に観ることもあるでしょうし、今後ともよろしくということで」

 この後、会見は約3分、中断。バックボードが片付けられるなどしたのち、次なる挑戦について紹介する「第2部」が始まった(続く)。

ラグビーライター

1982年、富山県生まれ。成城大学文芸学部芸術学科卒。2006年に独立し、おもにラグビーのリポートやコラムを「ラグビーマガジン」「ラグビーリパブリック」「FRIDAY DIGITAL」などに寄稿。ラグビー技術本の構成やトークイベントの企画・司会もおこなう。著書に『ジャパンのために 日本ラグビー9人の肖像』(論創社)『サンウルブズの挑戦 スーパーラグビー――闘う狼たちの記録』(双葉社)。共著に『ラグビー・エクスプレス イングランド経由日本行き』(双葉社)など。

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