昭和2年(1927年)に最後の漂流難破船「良栄丸」 帆船時代の冬の季節風は陸地に戻れない風
冬型の気圧配置
令和3年から4年の冬は、西高東低の冬型の気圧配置となって強い寒気が南下することが多くなっています。
今週末は、南岸低気圧などで冬型の気圧配置はゆるみますが、週明けからは再び強まる見込みです(図1)。
西高東低の冬型の気圧配置は、江戸時代までは、太平洋沿岸を航行する船舶にとっては非常に危険なものでした。
江戸時代の漂流難破船
江戸時代までの船舶の動力は風の力ですので、沖合に向かって吹き続ける風は、陸地に戻れなくなる危険な風ということになります。
日本海沿岸では、そのような風はほとんどありませんし、仮にあっても、沈没しなければ、ほどなくどこかの陸地にたどり着け、時間がかかっても、戻ることができます。
これに対し、東~西日本の太平洋沿岸では、西高東低の気圧配置の時に吹く北西の季節風が危険な風ですので、毎年のように吹きます。
北西の季節風によって沖合いに流されると、黒潮によってますます陸地から離れますので、広大な太平洋を漂流し、ほとんどのすべてが難波船となりました。
このため、太平洋沿岸の航路は季節を選んで行われ、漁船は陸地にかなり近い所での操業を強いられました。
これに対し、日本海では沖合に流されても沈没しなければ、ほどなく陸地にたどり着けます。
このため、昔の日本のメイン航路は日本海沿岸でした。
最後の漂流難破船
明治時代となり船舶の動力がエンジンになると、東~西日本の太平洋沿岸で北西の季節風が吹いても、直ちに漂流することはなくなりました。
しかし、エンジンが故障した場合は、江戸時代までと同じでした。
大正15年(1926年)12月7日、和歌山県西牟婁郡和深村の漁船「良栄丸(18トン)」は、銚子沖でマグロ漁をするために銚子港を出港しています。
漁さなかの12月12日、良栄丸はエンジンが故障して漂流しています。
西高東低の冬型の気圧配置で、帆をあげて陸に戻ることもできませんでした(図2)。
漂流難破船となった良栄丸を発見したのは、アメリカの汽船マーガレット・ダラー号です。
明治2年(1927年)10月31日のことで、アメリカワシントン州沖でした。
船の中には、三鬼登喜造船長と日誌を記録していた松本源之助船員2名のミイラ、乗組員10名の白骨が残されていました
漂流中の記録
良栄丸の記録は、江戸時代の漂流船の経過そのものと考えられることから貴重なものです。
その記録によると、大正16年(1927年)2月下旬に米が尽き、釣り竿や網を使いましたが魚は取れませんでした。
そして、3月9日には機関長が、続いて3月13日に1名と、4月19日までに10名が亡くなり、残るのはミイラ化した2人だけになっています。
前年12月25日に大正天皇が逝去され、昭和と改元されたのを知るよしもなく、大正時代として記録が綴られています。
良栄丸のニュースはアメリカで大きな話題となりました。
アメリカン・メール・ライン社が良栄丸を日本まで無料で輸送することを申し入れたり、シアトル港務部が良栄丸をプレジデント・ジャクソン号の甲板に引き揚げるために巨大起重機の使用を申し入れたりしています(図3)。
また、直ちに義援金が集まるなど好意的なことが多かったのですが、日本人排斥の材料として「食料品が尽きると同胞の肉を相食した」という全くの誤報が流されたりしています。
良栄丸の漂流難破以降、すべての船舶に無線通信機が積まれていますので、エンジンが止まっても助けを呼ぶことができます。
従って、良栄丸は、最後の漂流難破船になると思われます。
図1の出典:気象庁ホームページ。
図2の出典:原典は気象庁「天気図」、加工は国立情報学研究所「デジタル台風」。
図3の出典:読売新聞(昭和2年(1927年)11月18日朝刊)。