「どうする家康」に登場している本多忠勝と本多正信の関係
「どうする家康」で松平氏譜代の家臣として登場している本多氏。一口に本多氏といっても様々な系統があり、ドラマ中でも複数の本多一族が登場する。
なかでも初回から登場している山田裕貴演じる本多忠勝や、5日の放送で登場するも他の重臣達にとことん嫌われている本多正信が有名で、他にも「鬼作左」と呼ばれた本多重次なども知られる。
江戸時代には各地に大名本多家があったが、これらはどういう関係にあるのだろうか。
本多氏のルーツ
江戸時代の幕臣の系譜を集成した『寛政重修諸家譜』によると、本多氏は藤原北家の一族で、助秀が豊後国本多に住んで本多氏を称したのが祖という。そして、その子助定は足利尊氏に仕えて尾張国横根・粟飯原を与えられたというが、実際のところはよくわからない。
13代助政には定通・定正の二子があり、以後嫡流の定通系と傍流の定正系(西城本多家)の二系統に分かれ、嫡流からはさらに三河国宝飯郡の伊奈城(現在の愛知県豊川市)の城主となった伊奈本多家が出た。
嫡流、本多忠勝の一族
嫡流は助時の時に松平氏2代目の泰親に仕えたといい、松平氏初期から譜代の家臣である。
天文18年(1549)の安祥城攻めの際に本多忠高が22歳で討死、その遺児が豪傑平八郎(忠勝)である。忠勝は叔父忠真のもとで育てられ、大高城の兵糧入れの際にわずか13歳で初陣を果たした。以来57回戦ってかすり傷一つ負わなかったという。
後に酒井忠次・榊原康政・井伊直政とともに徳川四天王の一人に数えられ、天正18年(1590)の家康の関東入りでは上総国大多喜城主10万石の城主となった。子孫は三河岡崎藩主となっている。
分家の伊奈本多家は三河国額田郡大平村(現在の岡崎市大平町)に住み、重次(作左衛門)は7歳で松平清康に仕えた。のちに「鬼作左」と呼ばれ、家康の代には重臣として三河三奉行の一人となった。天正3年(1575)の長篠の戦のときに留守を預かる妻に宛てた「一筆啓上 火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」という手紙が有名。
家康の関東移封後、豊臣秀吉の命で蟄居させられたが、長男成重は松平忠直の付家老となって丸岡藩を立藩している。のち一族が近江膳所3万石の藩主となった。
本多正信の家系
一方、嫌われ者として登場した正信は庶流の西城本多家の子孫である。
この後、三河一向一揆が勃発すると、父俊正は松平元康(徳川家康)方に、子正信は一向一揆方についた。そして、乱後父俊正は元康に鷹匠として仕え、子正信は逃亡することになる。
しかし、正信はのちに家康のもとに復帰し、以後は謀臣として活躍する。長男正純は宇都宮藩15万5000石の藩主となるがのちに改易。次男政重の末裔が加賀藩家老となった。
また、西城本多家には豊後守家という分家もあり、広孝は織田信広を捕らえて織田家の人質となっていた家康との交換を実現したことで知られる。この子孫は信濃飯山藩主となった。
一口に「本多」と言っても、松平家家臣には多くの一族があった。