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小早川秀秋は、石田三成の讒言により筑前・筑後を召し上げられたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小早川秀秋が本拠とした名島城跡。(写真:イメージマート)

 「どうする家康」の新キャストが発表され、嘉島陸さんが小早川秀秋を演じることになった。一説によると、小早川秀秋は石田三成の讒言により、筑前・筑後を召し上げられたという。果たして、それが事実なのか考えることにしよう。

 小早川秀秋(1582~1602)は、木下家定の子として誕生した(初名は秀俊)。その後、豊臣秀吉の養子となり、同じ秀吉の養子の秀次に次ぐナンバー2と目されていた。中納言にまで昇進したのだから、それは当然のことといえよう。

 しかし、文禄2年(1593)、秀吉に後継者となる子(のちの秀頼)が誕生すると、秀秋の立場にも影響が及んだ。

 文禄3年(1594)、秀秋は小早川隆景の養子となったが、その翌年に秀次が切腹した事件に巻き込まれ、丹波亀山(京都府亀岡市)を取り上げられたのである。

 ところが同年、秀秋は秀吉から許され、筑前名島(福岡市)を知行することになった。代わりに隆景は備後三原(広島県三原市)に隠退し、慶長2年(1597)に亡くなったのである。

 同年、秀秋は慶長の役に伴い、朝鮮の釜山へと渡海した。その後、秀吉は秀秋に帰国命令を出したので、翌慶長3年(1598)1月に秀秋は日本へと戻ったのである。

 同年3月、秀秋は秀吉の命により、筑前・筑後の2ヵ国を召し上げられ、越前北庄(福井市)に転封を命じられた。なぜ、秀秋はこんな酷い目に遭ったのだろうか。

 この一件の背景には、三成の策謀があったという。『藩翰譜』などによると、三成は朝鮮における秀秋の失態を報告し、秀秋の領する筑前・筑後を欲したとある。果たして、これは事実なのか。

 秀秋が筑前・筑後の2ヵ国を召し上げられた理由は、蔚山の戦いにおける失態が原因であるといわれている。しかし、秀秋の帰国は蔚山の戦い前に決まっているので、誤りである。そもそも秀秋は、蔚山の戦いに出陣していない。

 同年5月、三成は家臣の大音新介に書状を送り(「宇津木文書」)、内々に筑前・筑後を与えられ、九州支配の一角を担う予定であったと知らせている。

 しかし、それでは佐和山(滋賀県彦根市)を支配する後任もおらず、秀吉の身辺に仕えられないので、三成は両国の拝領を辞退し、佐和山に止まった。そして、秀秋が越前に行っている間、三成は代官として筑前を一時的に預かったのが真相のようだ。

 つまり、秀秋は三成の讒言によって、筑前・筑後の2ヵ国を召し上げられたとされるが、明白な誤りである。後世に成った史料は、なんでもかんでも三成のせいにする傾向が見られるので、注意が必要である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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