「賤ヶ岳の七本槍」になれなかった、豊臣秀吉に仕えた2人の武将
昨今のサラリーマンは成果主義の人事制度で評価され、かなり厳しい出世競争にさらされている。それは戦国時代も同じだった。賤ヶ岳の戦いで活躍した豊臣秀吉配下の7人の武将は「賤ヶ岳の七本槍」と称されたが、実は9人だったという異説もある。含まれなかった2人の武将について、考えてみよう。
天正11年(1583)4月、羽柴(豊臣)秀吉は柴田勝家と賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で戦い勝利した。敗北した勝家は、本拠の越前北庄(福井市)に逃走し自害して果てた。
賤ヶ岳の戦いで大活躍したのが、賤ヶ岳の七本槍と言われる、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の7人である。彼らは秀吉の子飼いで、のちに豊臣政権を支えた。
実は、賤ヶ岳の九本槍という異説がある。賤ヶ岳の九本槍の場合は、先の面々に桜井家一と石川一光の2人が加わる。家一は生年不詳で、秀吉の御側廻の小姓を務め、少年期から奉公していた(『川角太閤記』)。
やがて、家一は羽柴(豊臣)秀長(秀吉の弟)に仕官し、その死後は秀長の養子の秀保に仕えた。家一は秀吉の信頼が厚く、口頭で機密情報を伝える際は使者として用いられ、秀吉から秘蔵の馬を与えられたという。
賤ヶ岳の戦いでは家一も出陣し、敵に槍で突かれ、絶命したかと思われたが、それにも屈せず大活躍し、手柄を挙げた。同年6月、秀吉は家一に褒美として丹波国内に3千石を与える旨を記した感状を与えている(「個人蔵文書」)。
しかし、賤ヶ岳の七本槍の面々に宛てた感状にも、すべて「一番槍の高名を挙げた」と書いているので、必ずしも家一が一番槍だったとは言えないようだ。
家一は、慶長元年(1596)8月頃に死去。残された母と娘は、秀吉から大和国十市郡新堂村(奈良県桜井市)に百石を与えられたという(『保田系図』)。
石川一光も生年不詳で、秀吉の馬廻衆を務めていたという。一光は賤ヶ岳の戦いに出陣し、勝家の配下の武将で、無双の大力を誇る豪の者の拝郷五左衛門尉と戦ったが討ち死にした(『太閤記』)。
同年6月、秀吉は一光の弟(または子)の長松に感状を与えた(「古案」)。文面には、一光が賤ヶ岳の戦いで一番槍の高名を挙げたが討ち死にしたこと、褒美として兄の代わりに千石を与える旨が書かれている。
そもそも七本槍という言葉は、寛永2年(1625)に小瀬甫庵が著した『太閤記』が初見であり、家一や一光の名も軍功を挙げた武将として取り上げられた。これより以前に成立した『柴田合戦記』では、七本槍に家一と一光を加えて、9人の軍功を称えた。
なぜ七本槍になったのかは不明であるが、一つは「七」という数字の語呂が良かったこと、そして選ばれた七人の知名度であろう。無名の家一と一光は、かなり不運だったのかもしれない。