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大混乱のアカデミー賞授賞式。それ以上に「軽すぎる」演出が目についた違和感

斉藤博昭映画ジャーナリスト
作品賞が『ムーンライト』だと訂正された直後の、プレゼンターのウォーレン・ベイティ(写真:ロイター/アフロ)

作品賞発表で大間違いがあり、前代未聞の大混乱のエンディングとなった、今年のアカデミー賞授賞式。本命とされた『ラ・ラ・ランド』が作品賞を逃したのも大きなサプライズだったが、授賞式全体の演出はどうだったか。見ていた人の心を打つ瞬間が何度もあったか。総合的に判断すると、「残念」な授賞式という印象が強い。今年のホスト、ジミー・キンメルをよく知っているアメリカ人はともかく、海外の映画ファンにとっての純粋な感想として、記しておきたい。

ゴールデン・グローブ賞でのメリル・ストリープによるトランプ大統領批判から、このアカデミー賞でも政治的発言によって論議を起こすかとも思われ、オープニングのスピーチで、メリルに絡めてトランプへの軽いジョブを入れるジミー・キンメルと、そこそこに想定内の展開だった。

ただ、授賞式の途中で何度か、授賞式の印象が軽くなってしまうような瞬間が何度か訪れた。

一般の人たちを会場に招き、最前列のスターたちと交流させる演出は、当事者たちには貴重な体験かもしれないし、セレブと視聴者の距離を縮める演出意図があったのかもしれない。ただ、ダラダラと続く彼らの交流を見ているのは視聴者として退屈この上なかった。長く続くと「やらせ」演出のようにも感じられるし、スターたちと一般客が、まるで動物園の動物と来園客のようにも見えてきたのは悲しかった。

スターたちが自分に対する「ミーン(意地悪な)ツイート」を自ら読む映像は、ジミー・キンメルのショーで人気になったとはいえ、要するに自虐ネタで笑わせるだけ。2年前の、会場でスターが「自撮り」するパフォーマンスは、まだ珍しくて面白かったが、ここまで授賞式とSNSを結びつけるのは、若い世代にアピールしたいとはいえ、授賞式全体が安っぽく見えてしまう。会場の天井からキャンディを降らせる演出も、出席者が喜んでいるのは内輪ウケのように感じられた(しかも2度もやる必要はあったのか?)。

予算の縮小などでショーアップの演出が抑えられているここ数年の傾向は踏襲され、ジャスティン・ティンバーレイクや、『ラ・ラ・ランド』の曲など、舞台上でのパフォーマンスは今年も少なめ。ゴージャス感が控えめなのは、仕方ないとはいえ、やはり物足りなさは残る。

ジミー・キンメルがやたらとマット・デイモンをいじるのも2人の関係からお決まりとはいえ、後半まで何度もやられるとしつこさが感じられ、これを世界に向けたアカデミー賞でやり続けていいのかという疑問で、安っぽいバラエティ番組を見ているようだった……などなど、ネガティブな場面ばかり書き連ねると、各演技賞の直前に歴代の受賞シーンが流れるなど伝統的な演出や、『Hidden Figures』のモデルとなった女性の登場、外国語映画賞のイランのアスガー・ファルハディ監督の代読スピーチなどが、逆に新鮮な感動としてよみがえってくる。

あれこれ模索するあまりに、厳かさや伝統が失われていかないだろうか。ツイートのトランプ挑発も気が利いているとも見えるが、どっしりとした授賞式で違和感があったのは考え過ぎだろうか。アメリカの外から見ると、とにかく例年になく「軽さ」が目についた、今年のアカデミー賞授賞式だった。

映画ジャーナリスト

1997年にフリーとなり、映画専門のライター、インタビュアーとして活躍。おもな執筆媒体は、シネマトゥデイ、Safari、スクリーン、キネマ旬報、VOGUE、シネコンウォーカー、MOVIE WALKER PRESS、スカパー!、GQ JAPAN、 CINEMORE、BANGER!!!、劇場用パンフレットなど。日本映画ペンクラブ会員。全米の映画賞、クリティックス・チョイス・アワード(CCA)に投票する同会員。コロンビアのカルタヘナ国際映画祭、釜山国際映画祭では審査員も経験。「リリーのすべて」(早川書房刊)など翻訳も手がける。連絡先 irishgreenday@gmail.com

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