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グラウンドに仮設住宅が建てられてから10年。困難を乗り越えながら走り続けてきた宮城水産高野球部の軌跡

上原伸一ノンフィクションライター
2018年3月に完成した新しいグラウンド(写真提供 宮城水産野球部)

東日本大震災で野球部の状況が一変

 仙台から石巻で電車を乗り継き、約1時間半。渡波(わたのは)駅から程近いところに宮城水産高はある。2018年に設立120年目を迎えた、全国屈指の歴史と伝統がある水産高校だ。野球部も実績があり、2005年秋と06年春はいずれも東北大会に進出している。

宮城水産野球部の状況を一変させたのは、2011年3月の東日本大震災だ。前年も3季連続で県16強に食い込んでいた。さらなる結果を求め、自校のグラウンドで練習に励んでいた、その最中に大震災は起きた。幸いにも当時の17名の部員はみな無事だったが、うち13名の自宅が津波によって全壊、もしくは半壊に。避難所生活を余儀なくされた部員も少なくなかった。その後は散り散りとなり、新1年生も迎え、全部員が顔を揃えたのは、大震災からひと月半以上経った頃だった。

ただ、活動を再開したのは、自分たちのグラウンドではなかった。海から500mと離れていない宮城水産の校舎は、幸運にも立地の地形に助けられ、津波の水は上がらなかった。しかし、学校がある石巻市が最大で78センチも地盤沈下したことで、満潮時には校舎の1階部分が浸水。暫定措置として石巻北高の敷地内に移転し、野球部の練習も同校のグラウンドを借りて行うことになったのだ。石巻北は高台にあるため、震災被害が大きくなかった。

“野球どころではない日々”を乗り越え夏の大会に出場

「あの頃は、野球をやっている場合かと、毎日葛藤していましたね」

こう話すのは当時の監督で、現在は部長を務めている荻野智志先生だ。新卒で宮城水産に赴任した荻野部長は、この4月で22年目となる。

「あいつら今も大変な思いをしているんだろうな…そう思うと、練習の時に厳しい言葉をかけるのがためらわれまして」

荻野部長自身も、最愛の家族が壮絶な体験をしていた。車で高台へと避難に向かっていた妻が、津波にさらわれながらも、九死に一生を得ていたのだ。車中には生後4か月の次男もいた。

そんな荻野部長にハッパをかけたのが、髙玉太輝部長(現仙台工業高部長)であり、阿部輝昭副部長(現石巻北高部長)だった。「グラウンドで情けをかけるのは選手のためになりませんよ」。

荻野部長はこう言う。

「とても自分だけでは抱えきれなかった。2人の先生がいたから、2人の先生の熱意があったから、なんとか指導ができたのだと思います」

宮城水産は“野球どころではない日々”を乗り越え、夏の県大会に出場。仙台第三高との初戦(2回戦)に敗れたものの、堂々たる戦いぶりだった。

様々な思いがこみ上げてきたのだろう。震災時の壮絶な様子も淡々と話す荻野部長だが、試合後に地元の記者から「こうして試合ができたことが奇跡ですよね」と問いかけられると、「そうですね」と目を赤く腫らしていた。

宮城水産高野球部の荻野部長。東日本大震災の年は”野球どころではない”中、監督としてチームを率いた(写真提供 宮城水産高野球部)
宮城水産高野球部の荻野部長。東日本大震災の年は”野球どころではない”中、監督としてチームを率いた(写真提供 宮城水産高野球部)

部員不足で単独チームが組めない年が続く

震災翌年の12月。宮城水産はようやく自校の校舎に戻った。だが、野球部のグラウンドには仮設住宅が立ち並んだまま。駐車場脇の横15m、縦80mほどの空きスペースが練習場になった。地面はアスファルトである。

この頃、荻野部長は宮城県庁に出向になっていた。県が所有している「宮城丸」という実習船の運航・管理をするためだった。髙玉先生と阿部先生は引き続き、野球部の指導を継続。土の上で野球をやらせてあげたいと、自転車で30分ほどのところにある、中学硬式チームのグラウンドを借りた。その甲斐もあって、荻野部長の出向最終年(2014年)には、榊良輔監督(現名取北高)のもと、夏の大会で3回戦に進出している。

以後はこれを上回る成績は残せていない。部員確保が難しくなったからである。

「かつては『宮水』で野球をやりたいという子がたくさんいました。東北大会に進出した頃は40人くらいいたのでは。でもグラウンドがコンクリートでは…それを知った上で来てくれる子はほとんどいませんでした」

2016年に荻野部長が監督に復帰した年は、夏こそ単独チームでは出場できたものの、春と秋は、本吉響高、石巻北高、気仙沼西高との連合チームを指揮することに。翌年も部員不足は解消せず、3季とも連合チームでの出場になった。

部員不足は震災の影響もあった。津波被害が大きかったところはどこも人口が減っており、石巻市は震災後の10年で約2万人減。これに比して、子供の数も少なくなっていた。「石巻市の学校はどこも、新入部員が2ケタに達していない状況です」。

現在の宮城水産高野球部の全部員。新3年生が2人で、新2年生が1人のわずか3名だ(写真提供 宮城水産高野球部)
現在の宮城水産高野球部の全部員。新3年生が2人で、新2年生が1人のわずか3名だ(写真提供 宮城水産高野球部)

10年経ったからと立ち止まってはいられない

こうした中、希望の光になったのが、2018年3月に完成したグラウンドだ。7年間あった仮設住宅を撤去し、駐車場のコンクリートをはがし、1年近い工期を経て、宮城水産の野球部にグラウンドが戻ってきた。左翼95m、中堅110m、右翼89mと、自校での練習試合もできる立派なグラウンドだ。聞けば、工事期間中はブルペンの狭いスペースを使って練習をしていたという。

「ようやく…本当にようやく、でしたね。部員が少ない中でグラウンドを作ってくれた学校に感謝ですが、これで新たな一歩が踏み出せる気がしました」

新しいグラウンドの工事期間中はブルペンの限られたスペースで練習を続けた(写真提供 宮城水産野球部)
新しいグラウンドの工事期間中はブルペンの限られたスペースで練習を続けた(写真提供 宮城水産野球部)

グラウンドができてすぐ、荻野部長は1年間だけ野球部を離れたが、代わりに監督になったのが、阿部克彦先生だった。阿部先生は東日本大震災の翌年のセンバツで選手宣誓を行った、石巻工業高の阿部翔人さん(当時新3年、日体大を経て、現在は石巻高非常勤講師)の父である。荻野部長にとっては赴任時の監督でもあり、1年後に野球部に戻った時は「また阿部先生とコンビが組めるとは…と思いましたね。実は野球部にグラウンドをと、学校側に働きかけてくれたのが、2016年に2度目の赴任で来られた阿部先生だったんです」。

2019年夏は、阿部監督、荻野部長の体制で、16年夏以来となる単独チームで出場。「他の運動部から“助っ人”を借りて、なんとか9人揃いましてね」。しかし、昨年はまた連合チームに。宮城水産野球部の道のりは険しい。加えて、コロナという新たな敵も出現した。

「やっとグラウンドができてこれからだというのに、まだ試練が与えられるのか、という感じです」。荻野部長は苦笑する。

2019年夏は助っ人を入れてチームを編成。単独チームとして夏の大会に出場した(写真提供 宮城水産高野球部)
2019年夏は助っ人を入れてチームを編成。単独チームとして夏の大会に出場した(写真提供 宮城水産高野球部)

東日本大震災から10年が経過した。10年経った今、荻野部長は何を思うのか?そう尋ねると、「うーん」と2度繰り返した後、こう答えた。

「うまく言葉にはできないのですが、無我夢中でしたね。10年という区切りはつきましたが、これからも走り続けないと。学校として受け入れた子供に、しっかり教育を施さなければなりません」

教育の中には、防災教育も含まれる。宮城県は「3.11」を教訓に、県として防災教育に力を入れている。各校とも防災主任がいる中、宮城水産の生徒も真剣に取り組んでいるというが、大人はというと、震災時に沿岸部にいた人とそうでない人では温度差があるのも確か。荻野部長は「津波の恐ろしさを体験した者として、また同じことが起きた時に犠牲者を増やさないようにするのが、使命だと思っています」と言う。

10年経ったからといって、立ち止まっているわけにはいかない。宮城水産の野球部も前に進み続ける。

ノンフィクションライター

Shinichi Uehara/1962年東京生まれ。外資系スポーツメーカーに8年間在籍後、PR代理店を経て、2001年からフリーランスのライターになる。これまで活動のメインとする野球では、アマチュア野球のカテゴリーを幅広く取材。現在はベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」、「大学野球」、「高校野球マガジン」などの専門誌の他、Webメディアでは朝日新聞「4years.」、「NumberWeb」、「スポーツナビ」、「現代ビジネス」などに寄稿している。

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