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大坂冬の陣後、織田有楽が豊臣方を見限り、大坂城を退去した驚きの真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣の模様が描かれたが、織田有楽はあまり注目されていない。戦後、豊臣方と徳川方の間で和睦が成ったものの、有楽は大坂城を退去した。なぜ、有楽は豊臣方を去ったのか、その真相を考えることにしよう。

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際、有楽は大野治長とともに豊臣家を支えた。しかし、有楽と治長は牢人衆の提案する作戦を退けるなどし、豊臣家を滅亡に追い込んだ張本人の1人と考えられている。

 大坂冬の陣終了後、有楽は子を人質として徳川方に送り和睦に尽力するなど、豊臣方に貢献したのは間違いない。その有楽は翌年の大坂夏の陣の開始直前、大坂城を去ったが、どういう理由があったのか。

 慶長20年(1615)2月26日、有楽は大坂城から退去しようとした(『駿府記』)。有楽は使者の村田吉蔵を家康のもとに遣わし、「大坂城を退き、京都か堺あたりに引き籠りたい」と申し出た。ところが、理由までは書かれていない。

 同年3月28日、有楽は後藤光次に「私は上意(家康あるいは秀忠の意向)に任せて未だ大坂城におりましたが、ここにおりましても私の献策は取り入れられません。早々に大坂城から退くことを執り成しいただきますよう、本多正純様に申し入れました」という書状を送った(『譜牒余録』)。つまり、有楽は家康らの意向により、豊臣家にあったのだ。

 有楽が豊臣方にあった理由は、端的にいうならば徳川方のスパイということだ。従来の見解(のちに成った編纂物)は、これに近い意味合いで考えられてきた。

 有楽は家康から大和国に3万石を与えられたので徳川方に近く、強く疑われたのである。とはいえ、有楽は徳川方と豊臣方の友好関係を築くために、豊臣方にあったと考えるべきで、付家老のような存在だった。

 では、豊臣方では、何が問題だったのか。大坂の陣に際して、多くの牢人衆が大坂城に集まったが、和睦の際には牢人衆の存在が最大のネックになった。徳川方は牢人衆の退去を望んだが、牢人衆の多くは戦争の続行を望んだ。徳川方に勝って、恩賞を欲したのである。有楽はそうした家中のさまざまな意見の相違に苦しめられていた。その点をもう少し考えてみよう。

 同年4月13日、有楽と子の尚長は、名古屋の家康の前で豊臣方の情勢について、「大坂方の情勢は、諸浪人とあわせて3つに分かれております。つまり、①大野治長、後藤基次、②木村重成、渡邊糺、真田信繁、明石掃部、③大野治房、長宗我部盛親、毛利勝永、仙石秀範の3つの勢力です」と述べている(『駿府記』)。

 この3つのグループを大雑把に分けるならば、①が和睦推進派、②が中間派、③が徹底抗戦派になろう。しかしながら、徳川方との和睦を進めようとする有楽は、自身の意見がまったく通らないとなると、その存在価値がないと考えたようだ。

 つまり、有楽が退去した理由は、大坂方の派閥抗争に巻き込まれ、徳川方と豊臣方の友好関係を築くという、当初の目的が叶わなかったため、思いもよらず大坂城を退かなければならなかったのである。有楽といえば、常に悪いイメージがつきまとうが、少しは見直す必要があるようだ。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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