【「麒麟がくる」コラム】いよいよ上洛を果たした足利義昭!その成功には織田信長の尽力があった!
■やっと上洛に成功した足利義昭
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の話が進み、ようやく足利義昭が織田信長に推戴されて上洛するところまで来た。この頃から、ようやく明智光秀がたしかな史料にあらわれる。光秀の前半生は不明とされているので、ここからドラマも本番といえよう。
今回は、義昭と信長の上洛の過程を確認しておこう。
■態勢を整える織田信長
永禄11年(1568)、信長は北伊勢に出兵し、神戸氏と長野氏を降伏に追い込んだ。そして、神戸氏の養子として三男の信孝を、長野氏の養子として弟の信良(信包)をそれぞれ送り込み、北伊勢を支配下に収めた。これにより、信長は心置きなく上洛を果たせる態勢が整った。
その前年から翌年にかけて、近江の国衆らと友好関係を築くべく、永原氏、佐治氏の知行を安堵し、甲賀の諸侍とも通じた。近江には、名門の六角氏が控えており警戒していた。こうして、信長は上洛するための準備を着々と進めたのである。
■上洛を待つ義昭
態勢を整えた信長は、越前に滞在していた義昭に対して、美濃に移るように要請した。義昭は興福寺を出奔後、各地を転々としつつ、永禄9年9月に若狭から越前に移っていた。義昭の目的は、室町幕府の再興と自身が征夷大将軍の座に就くことにほかならなかった。
義昭はそれまでも各地の大名に上洛を呼び掛けたが、なかなか実現しなかった。それだけに、信長からの要請に対する喜びは一入(ひとしお)だったに違いない。永禄11年7月下旬頃、越前を発した義昭は美濃の立政寺(岐阜市)に入ると、来るべき上洛の日を待ち望んだ。
■いよいよ上洛する
同年8月7日、信長は近江佐和山城(滋賀県彦根市)の六角承禎(義賢)に対して、義昭の上洛に協力を呼び掛けた。上洛に成功した場合は、室町幕府の所司代にするという条件で、京都までの路次を確保してほしいという内容だった。
ところが、承禎と子の義治は信長の申し入れを拒絶し、信長や義昭に敵対する三好三人衆(三好長逸、岩成友通、三好政康)に与することになった。こうして信長と六角氏は決裂したのである。
同年9月7日、信長は尾張、伊勢、美濃、三河の4ヵ国の軍勢を率いて、上洛すべく出陣した。三河とは、徳川家康の軍勢のことであろう。態勢は万全だったのである。
■信長の快進撃
同年9月12日、信長は箕作山城(滋賀県東近江市)を落すと、その一報を耳にした六角承禎・義治は戦うことなく、居城の観音寺城(滋賀県近江八幡市)を放棄して逃亡した。六角氏は反旗を翻したものの、あっけなく敗北したのだ。
六角氏を降した信長は、同年9月28日に東福寺(京都市東山区)に入った。翌9月29日、信長は三好三人衆の一人である岩成友通が籠る勝竜寺城(京都府長岡京市)を落すと、三好三人衆に与する摂津の諸城は、戦わずして降参した。
勢いに乗った織田軍は、山城、摂津、河内を席巻し、たちまち支配下に収めた。大和を支配していた松永久秀は、信長と義昭に従うことにより、その支配を改めて許可された。こうして瞬く間に、畿内は信長によって制圧されたのである。
■室町幕府の再興なる
信長の尽力により、義昭は悲願である室町幕府の再興を成し遂げ、直後には念願の征夷大将軍に就任した。しかし、忘れてはならないのは、決して義昭ら幕府の残党だけでは、上洛が不可能だったことだ。
そして、冒頭で触れたとおり、この頃から光秀の姿がたしかな史料に登場する。その点は、回を重ねるごとに取り上げることにしよう。