阪神淡路大震災 情報が無いのではなく数の圧力で必要な情報が得られない
阪神淡路大震災から24年
平成7年(1995年)、ある亥年の1月17日の阪神淡路大震災から24年がたちます。
当時、神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台)の予報課長でしたが、そのときに災害現場で経験したことと、一般的に言われていることとの違和感は、その後に被災しながら勤務した福井豪雨や東日本大震災を経験した後でも続いています。というより、大きくなっています。
それは、災害時に何をしたら良いのかということに正解はないことで、ある災害時には正しい行動でも、別の災害時には間違った行動になるということからきているのではないかと思います。
災害発生後に色々な意見が出てきます。
多くは正しい意見ですが、その大半は、災害の結果を知ってからの意見です。
阪神・淡路大震災の約2ヶ月後に地下鉄サリン事件が発生し、その少し前に発生した松本サリン事件の容疑者が冤罪であったことが明らかになったことから、日経新聞では、次のような社説を掲載しています。これを読んで、阪神・淡路大震災のときも同じと感じました。
また、災害の結果を知った上での意見でも、数についての認識がないものは、被災地から見ると、何も分かっていないということになりかねません。
阪神・淡路大震災の経験から、数が少ない時は正しい意見でも、数が多いと数の圧力で間違った意見になると感じています。
数の圧力(安否情報)
大きな災害が起きた時に、多くの人が知りたい情報は家族や知人の安否情報であり、この効果が最初に言われたのは、昭和39年(1964年)6月16日の新潟地震の時のラジオ放送で、約3000件が放送されたと言われています。
しかし、兵庫県南部地震での死者数は5000人を超えています。死亡者を1人5秒の時間で読み上げたとして約8時間かかります。
しかも音声や映像による情報ではその場で消えますので、5秒の情報を得るために、集中して8時間の放送を聴くという、災害で極限状態の生活をしている人にとって、不可能な状態をしいることになります。
数が少ないと何回かの繰り返し放送が可能ですが、それもできません。
新聞も同様で、死者1人1人の顔写真を入れて短い記事を作っても、それだけで30ぺージが埋まってしまいます。
阪神・淡路大震災では、情報がなかったわけではなく、情報の洪水の中で必要な情報が捜せない状況でした。
死者14人、負傷者40人、被災者32万人の新潟地震の時に効果的な方法でも、被害が極端に多かった阪神・淡路大震災では、その効果は激減しました。
数が少ない場合は有効でも、数が多い場合は無力になるという、数の圧力を随所で感じました。
有効な対策には、常に数の想定が必要と思いました。
平成7年(1995年)7月28日の朝日新聞「震災報道これから」には「文化放送では、阪神大震災の放送で、死亡者名簿の読み上げを断念し、パソコン通信での情報提供に切り替えた」という記事があります。
当時、携帯電話はあまり普及しておらず、パソコン通信は、多くの情報の中から自分の欲しい情報を捜すことができる将来の手段と考えられていました。
電話にも数の圧力がありました。
電源施設(蓄電池や予備発電機)がやられ、交換機等が使えなくなるなどで不通回線が増えたのに、多くの人が電話に殺到し、地震直後に使えた電話が輻輳して繋がらない状態となりました。
「混雑していますのでしばらく待ってお掛け直し下さい。」と電話口で言われても、誰も受話器を置こうとはしませんでした。電話がいったん繋がると、次に掛かる保証がないとのことで、そのままかけっぱなしにしておく人もいました。
これらが輻輳に拍車をかけました。
地震のあった17日6時台には、平日の71倍の電話が掛けられており、これまでの記録である平成5年(1993年7月12日)の北海道南西沖地震の50倍を軽く突破しています。
これまで、災害時には公衆電話のほうが掛かり易い、公衆電話はテレフォンカードが停電で使えない場合でも10円をいれるタイプは使えると言われていました。しかし、あまりにも多くの人々が殺到したため、公衆電話でも掛かりにくく、しかもコインを蓄える箱がすぐに満杯となって使えなくなっています(コイン約1000枚で満杯といわれています)。
なお、兵庫県南部地震で有効とされた携帯電話は、阪神淡路大震災の約半年後の7月3日夕方から4日14時すぎまで、九州北部では梅雨前線豪雨時に使用が殺到し、交換器のトラブルも加わって、半分から4分の1が通信不能となっています。
携帯電話が威力があるといっても、台数が増えたらやはり数の圧力で使えなくなるのです。
数の圧力(緊急通行車両)
災害時にどうしても必要な緊急車両が混雑のために使えないという数の圧力もありました。
気象台では、防災対策のために絶対に必要ということから優先的に通行できるよう、優先車両の申請をしましたが、事情はどこも同じです。
次々に優先車両の申請がだされ、21万枚という多数の優先車両票が発行されています。また、違法コピーも多数出回ったため、実質的に優先車両はなくなっています。普通の車と同じ扱いでした。
ある意味、被災地の車はどれも優先車両であり、地震発生前に決めておかない限り、地震発生後には優劣は付けがたいと思いました。
また、1人で車で乗り入れたり、狭くなっている道に路上駐車をしているのを見ると、優先車両は、1人乗り禁止で、必ず1人は車に残すという条件を付けたほうが良いのではないかとも思いました。
大混乱となった優先車両の経験から、災害対策基本法施行令が平成7年(1995年)8月25日に公布され、これを受けた総理府令第39条により、災害応急対策が的確かつ円滑に行われていないとき、又は、行われない恐れがあるときには、緊急通行車両の標識は、図のように決められました。
大きさは、縦15センチ、横21センチで、地色は金色ですが、カラーコピーをすると大部分が真っ黒になるとのことでした。
数の圧力(気象台への来台)
数の圧力というと、地震発生直後から多くの報道関係者や大学関係者が気象台へ来台し、通常業務に支障がでたため、1月26日より気象台現業室内への立ち入り禁止措置をとりました(写真)。
兵庫県南部地震発生直後の通信の状況や二次災害に関することなどについては予報課長である私が対応し、地震の担当である中井毅測候課長は、地震のメカニズムや余震の発生状況など地震そのものについての取材に限って対応することとしましたが、それでも中井課長への依頼が殺到しました。
兵庫県南部地域への地震計の増設や、地震でこわれた測風塔から風速計を移設といった問題がつぎつぎにあるなかで、たった一人の中井課長に対しての依頼集中です。
また、地震時の3人の当番者の話を聞きたいという報道関係者の依頼も殺到しましたが、これには、いろいろな作業で忙しい3人への取材ではなく、責任者である予報課長と測候課長への取材に切り換えて欲しいという対応をとりました。
このように、数が少ない場合と違った対応にならざるをえませんでした。
タイトル画像、図、写真の出典:饒村曜(平成8年(1996年))、防災担当者の見た阪神・淡路大震災、日本気象協会。