真田信繁の配下で活躍した真田十勇士は、本当に実在したのか?
いかに有能な人物とはいえ、単独で仕事などを成し遂げるのは難しく、人の力が必要である。真田信繁(幸村)は、真田十勇士なる面々に支えられたというが、それが事実なのか確認しよう。
真田信繁は大坂の陣で徳川軍を相手にし、大健闘したことで知られている。その配下には、かつてNHKの人形劇で人気を博した「真田十勇士」がいた。それぞれが特殊な能力を持ち、信繁をサポートしていたことが知られる。
真田十勇士の面々は、諸書によって異同があるが、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人が基本的なメンバーである。
信繁が父の昌幸と九度山(和歌山県九度山町)に逼塞しているとき、来るべき日(徳川家との戦い)に備えて、真田十勇士は諜報活動をしていたという。実際の合戦でも、彼らは大活躍した。
真田十勇士のうち、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助、由利鎌之介、筧十蔵、海野六郎、根津甚八の8人は、元禄期に成立した真田昌幸・信繁・大助の真田三代を主人公とする『真田三代記』に登場した。
その後、同書などをもとにして、神田龍伯によって『難波戦記』という書物が著された。やがて、猿飛佐助、望月六郎の2人を加え、真田十勇士になったのである。
明治44年(1911)、立川文明堂から「立川文庫」が刊行され、中でも『真田幸村』と『真田十勇士』はもっとも人気があった。同書を通じて、真田信繁と真田十勇士の話は広く知られるようになる。
しかし、真田十勇士の存在は、たしかな史料では確認できない。真田十勇士の活躍ぶりは、『真田三代記』や「立川文庫」の『真田十勇士』などに基づくもので、まったくの空想なのである。
あれほど人気のある真田十勇士は、近世に成立した編纂物などをもとにして、「立川文庫」でさらに脚色され、信繁が家康を苦しめるという痛快無比な作品に仕立て上げられているに過ぎない。夢もロマンも何もないが、まったくの創作なのである。