那古観音と崖観音、二つの寺への玄関口に残る築106年の木造駅舎 内房線 那古船形駅(千葉県館山市)
房総半島南部・安房地方の中心都市で、戦国時代には里見氏の本拠地だった千葉県館山市。その北部に位置する那古船形(なこふなかた)駅は、那古寺(那古観音)と大福寺(崖観音)という二つの寺のそれぞれの門前町「那古(なご)」と「舟形(ふなかた)」への玄関口である。駅名は二つの町の名を重ねた形だが、地名は「なご」と濁るのに対し駅名は「なこ」で濁らない。
那古船形駅は大正7(1918)年8月10日、安房勝山から延伸してきた木更津線の終点として開業。翌年の安房北条(現:館山)延伸で中間駅となり、同時に路線名も北条線に改称されている。房総線、房総西線を経て、現在の内房線になったのは昭和47(1972)年7月15日のことだ。
駅開業当時の所在地は安房郡船形町で、町名から取るなら「船形」駅となるところだが、隣接する安房郡那古町の町名と重ねて「那古船形」となった。那古町が門前町としてその名を知られていたこと、山形県最上郡舟形村(現:舟形町)の奥羽本線に舟形駅があって混同の恐れがあったことが、その命名理由と思われる。
駅舎は開業時のもので、今年で築106年。外観は標準的な木造駅舎といった印象だが、内部に入るとその印象が覆される。中心が水平で周辺部分が壁に向かって傾斜のつけられた「腰折れ天井」という造りがそのまま残っているのだ。腰折れ天井は那古船形駅のような国鉄の小駅ではあまり採用例を見ないが、天井が高いとそれだけで開放感がある。
貴重な駅舎だけに今後も残ってほしいが、平成31(2019)年4月1日に無人化されているだけに、規模に見合った簡易駅舎に建て替えられたりしないか気にかかるところだ。
ホームは単式一面一線。駅舎から真っすぐ進んで、階段またはスロープで上がる形となっている。駅舎とホームの間には不自然な空間があるが、それもそのはず、平成31(2019)年3月16日の棒線化までは、島式一面二線の交換可能駅だったのだ。
島式ホームだった頃は、駅舎側の1番線が木更津・千葉方面、2番線が館山・安房鴨川方面だった。駅舎とホームは屋根なし跨線橋で結ばれていて、ホーム上には木造待合室もあった。棒線化後に跨線橋や待合室は撤去されてしまったが、同様の構造は内房線の他の駅にはまだまだ残っている。
駅の南東には那古寺の門前町として栄えた「那古」の町が広がっている。養老元(717)年に行基によって創建されたと伝わる補陀落山那古寺は、関東三十三箇所観音巡礼の33番目「結願寺」として古くより多くの巡礼者を集めてきた。
那古町は元は平郡凪原村といい、「那古」「正木」「亀ヶ原」「小原」の旧村名から一字ずつとって「なぎはら」を名乗っていたが、那古寺が有名であることから、明治26(1893)年1月27日の町制施行時に那古町に改称した。那古町は昭和14(1939)年11月3日に、安房郡館山北条町、船形町と合併して館山市となっている。
駅の西側に広がる「船形」の町は、大福寺の門前町で、漁村としても栄えてきた。船形山大福寺は、養老元(717)年に行基が漁民の安全と豊漁を山の岩肌に彫ったとされる摩崖仏がその始まりで、慈覚大師・円仁が観音堂を建てたと伝わる。館山湾を見下ろす崖にへばりつくように建てられた観音堂は壮観だが、その立地ゆえに幾度もの災害で失われては再建されてきた。現在の堂宇は関東大震災後に再建されたものだ。
船形は幕末の元治元(1864)年、井伊直弼の大老就任に功あった旗本の平岡道弘が領地を与えられて大名となり、一万石の「船形藩」が置かれたところでもある。船形藩は明治元(1868)年に新政府に領地を自ら返上して廃藩となっており、4年足らずの短い期間しか存在しなかった。駅の裏手には建設途中で明治維新を迎え、未完のまま終わった船形藩の陣屋跡がある。
二つの門前町の玄関口で、貴重な腰折れ天井の木造駅舎が残る那古船形駅。内房線で降りて二つの観音を訪ねてみてはいかがだろうか。
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