阪神タイガース『2年3組』の小宮山慎二選手が引退、ブルペン捕手へ
昨年8月末に腰椎椎間板摘出手術を受け、リハビリに励んでいた阪神タイガース・小宮山慎二選手の名前が、同10月2日に球団から発表された「来季の契約を結ばない選手」の中にありました。その後も引き続き鳴尾浜でリハビリを行い、やがて秋季練習や自主トレの手伝いをしている姿を見て、ファンの方々も「これはきっと球団に残るんだ」と思っていらっしゃったでしょう。
その通り、小宮山選手はブルペンキャッチャーとしてチームに残りました。これからもユニホーム姿が見られるわけですね。辞令が2020年1月1日付だったため、この時期の記事になってしまいましたが、取材は昨年10月下旬。よって本人のコメントに出てくる“去年”は2018年、“ことし”は2019年、“来年”は2020年で、そのまま書かせていただきます。またファームでの写真しかない点も、ご了承ください。
小宮山選手は2003年のドラフト4位で、横浜隼人高校から阪神に入団しました。同期はドラフト1位・鳥谷敬選手、2位・筒井和也投手、3位・桟原将司投手、5位・庄田隆弘選手です。高校生は1人で「みんな年上だったから可愛がってもらった」と小宮山選手。実は親御さん同士も仲がよく、新人合同自主トレも一緒に見学されたりするくらいで、その後もよく連絡を取り合っておられたと聞いています。
2003年のドラフトということで選手、ご家族やスカウトの方々も、5人を『2年3組』と呼んでいました。2007年6月に庄田選手が1軍に昇格した際、小宮山選手は「まだ1軍に上がっていないのは僕だけ」と寂しそうだったのですが、その年の10月に自身も初昇格。追いついてきた2年3組の末っ子のことを、お兄さんたちは喜んでくれたでしょう。奇しくも“長男”の鳥谷選手が阪神を去る時に、末っ子の小宮山選手も引退。2年3組もこれでなくなってしまうわけですね。
では小宮山選手の話をご紹介します。まず引退を決めた経緯を聞きました。
「もういいかなと、思ってしまった…」
「手術してリハビリの予定を組んでいたので、もしかしたら来年も(現役は)あるかな…という気持ちが全然ないわけではなかったですね。でも、ここ3~4年はずっと終わりかなと思っていたので」。戦力外を告げられた時にブルペンキャッチャーの打診があり、翌日にもう返事をしたと言っていました。「自分の気が変わらないうちに、と思って。だから引退します」
そう決めたのはなぜ?「トライアウトを受験する熱量が、もうなかったんですよね。手術を受ける時は来年もやろうと思っていたけど、戦力外を言われた時に“もういいかな”と思ってしまって」…思っちゃったんですね?「そう。思っちゃった。よしやってやろう!とはならなかった。腰も手術後、痛くないとは言っていたけど、痺れもあったし波があったので」
腰痛は昔から?「いえいえ、ないですよ。前は腰痛なんか、まったくなかった。ただ一度だけ辻本賢人が投げていた時、イニング間に真っすぐのワンバンを放ってきて、捕れなくて股間に当たって(笑)。その衝撃でウッとなった時にギックリ腰をやりました。それは治って大丈夫だったんだけど、今度は2014年くらいかな?歩けないほどのギックリ腰になって、そこから。もう5年くらい」
今回、手術に至ったのは?「去年は1年間ずっと痛かった。ギックリ腰を2か月に1回くらいやって。でっかいギックリはないけど、ちょこちょこっと“あ、ヤバいな”ってのが結構あったので。2~3日休んで、また戻っての繰り返し。ことしはもうヤバかったです。4月くらいからずっと、1か月に1回は痛くなっていた」
強肩と正確な送球を評価され、2007年には当時の平田勝男監督から「スローイングはファームで一番!」と言われていた小宮山選手。「でも歳を取ってくるとうまくできなくなった。最初の原因はたぶん肩痛。肩痛になってから、痛くないところを探して投げるようになった。“逃がしながら”投げていて、結局は投げ方が悪くなって、そこへ腰痛」。そのあと「出番が減るのは仕方ない。年齢とともに。もう34歳ですよ」と、ちょっと寂しそうに笑いました。
16年前のサイン
昨年の11月で34歳になった小宮山選手に、新入団発表会の取材でサインを書いてもらったのは18歳の時ですね。野球部の監督が書道の先生に頼んで考えてもらったと当時言っていました。横浜隼人高校野球部の水谷哲也監督は、チームのユニホームにタテジマを採用したくらい熱烈なタイガースファンですから、小宮山選手が指名されて本当に喜んでおられたのを覚えています。
小宮山選手は水谷監督から「自分が一番ヘタなんだという気持ちで、人の倍は練習しなさい」と送り出されたとか。そして、うまくいかなくて悩んでいた時期も「原点に戻ってコツコツやっていれば必ず出番は回ってくる。“困った時は小宮山”と言われる選手になれ。一流のスーパーサブを目指せ!」と激励してもらったと話していました。引退の知らせを聞き、水谷監督も寂しいでしょう。
年明けにいただいた水谷監督のメッセージをご紹介します。教え子への深い愛はもちろん、タイガース愛も少し感じる文面です。
「昨年10月1日、本人から戦力外との連絡が入りました。いつの日か、とは思っていましたが…残念です。しかし関係者の皆様には本当に感謝の気持ちでいっぱいです!小宮山慎二も、横浜隼人(浜虎)初のプロ野球選手としてボロボロになるまで現役を続け、横浜隼人の歴史にしっかりと名を残してくれました。これからの人生、今までの経験を活かし粉骨砕身、お世話になった阪神タイガースに、またファンの方々に恩返しすべく、裏方として“気愛”で頑張ってもらいたいと思います!16年間、応援ありがとうございました」
初キャンプで四苦八苦
阪神での、プロ野球選手としての16年間を振り返ってください。「いっぱいありすぎる、いいことも悪いことも。じゃあ最初から振り返りましょうか」。え、最初からいけるの?すごいなあ。16年ですよ。「1年目のキャンプの初日…」。本当に最初ですね!わかりました。プロ野球選手になって1年目、2004年2月の安芸キャンプの、しかも初日の話です。
「(全体メニューの)バッティング練習に入れてもらったのはいいけど、ストレートマシンなんて打ったことないから大変でした。高校では手投げか、行きまーす!ボンってやつだけですもん。アーム式のストレートマシンなんか初めてで前に飛ばない。ケージから打球が出ないし、内野の芝生も越えない」。まさに手も足も出ない状況だったんですね。
「それで、当時は木戸監督と水谷バッティングコーチだったんだけど、2日目から『お前はバッティング練習に入らなくていいから』って外された。それがもう悔しくって悔しくて」。高校時代も木製バットで打ったりしていたのでは?「していましたけど全然。球が速すぎて、何これ?みたいな感じ。あげく、手投げしてもらった球も前へ飛ばないという…。こいつ大丈夫か?と思われていたはずです」
まあ高校生がプロに入って戸惑うのは、みんな同じだと思いますよ。「それが、次の年に大橋雅法と高橋勇丞が入ってきて、あいつらすごい!メチャメチャすごかった。高橋なんかガンガン放り込むし。他には桜井さんもいたし。いや~衝撃だった」。なるほど。そういう顔ぶれでしたか。桜井広大選手あたりは相当飛ばしていたでしょうねえ。
では、1年目のキャンプの話に戻ります。「2日目から、下で打っとけって言われて。育成コーチの風岡さんと、その時ファームでやっていた八木さんと一緒に、サブグラウンドでやっていました。2週間くらい」。キャンプの半分以上ですね。これが1年目の思い出だと言います。
島野監督、水谷コーチの言葉
続いて2年目の2005年。「ある日のファームの試合で、最後のベンチに俺と大橋が残っていたんですよ。ここで打ったらサヨナラという、メッチャいいところで大橋が代打で出された。やっぱり悔しいでしょ?絶対やってやろうと思って準備していたから悔しくて」。結果的には大橋選手も凡退して、逆転できずに試合は終わったみたいです。
「そのあと室内練習場でバッティングをしていたら、水谷さんが来てくれて。もしかしたら、たまたまなのかもしれないけど、話をしてくれたことがあったんです。悔しくて、悔しくて、バッティングしながら泣いていたら、水谷さんが『そうやって悔しい思いを持ちながら頑張れ』って」
3年目、2006年は島野育夫監督でしたね。「島野さんの思い出はありますよ。たぶん俺、自信なさそうにやっていたから島野さんがそれを察して、キャンプの時に『打席を楽しんでやりなさい』と言ってくれた。今は、楽しんでやるっていうのがタイガースの主流だけど、その時に島野さんから『打席に向かう自分の時間を、楽しんでやりなさい。ワクワクしてきなさい』と、俺は言われたんです」
それは今までにないアドバイスだったでしょう。厳しい監督が多かった時代に、島野さんは柔軟な考え方の監督でしたね。「でもキレたことがあった。僕なんかはまだお子ちゃまだから、楽しんでやりなさいと言ってくれたけど、(同期でも社会人出身の)庄田さんが牽制で刺されて試合終了になった時、島野さんがぶちキレました。その一度だけ」
なお、この年のフレッシュオールスターゲームは東京ドームで行われ、小宮山選手も出場。スタメンマスクをかぶりました。おじいちゃんを筆頭に関東在住の方が大勢駆けつけてくださったんですよね。そのおじいちゃんも2018年に亡くなったとか。長くユニホームを着た孫は、おじいちゃんの自慢だったと思います。
1軍での初打席、初安打
4年目、2007年。「思い出はやっぱりプロ初打席ですね。シーズン最後の最後で、順位が決まったあとの残り3試合かな」。そう、10月3日のヤクルト戦(神宮)の9回、代打での出場でした。結果は覚えていますか?「三振。相手が地元の先輩、舘山さん。初めて1軍に上がったから試合前に挨拶も行けていなかったので、舘山さんは気づいていなかったと思います」
この年は、沖縄キャンプに初召集された小宮山選手。しかし「紅白戦をやって、ファーストの守備についたんですよ。打球が飛んできて、普通の何気ないファーストゴロなのにトンネルして…何もいいとこなしでした。それから安芸に合流すると1軍と2軍の入れ替えがあるじゃないですか。そこで1年目だった清水さんと交代してファームに。それがホントに悔しかった。何もできずに終わったのが悔しかった」という微妙な思い出です。
5年目の2008年は初の開幕1軍!「でも3日しかいなかった。開幕前、ファームの試合に出てこいってことで行って、ファウルを打った時に左手の有鉤骨を骨折したんですよ。開幕の1週間くらい前。痛かったけど、そのままやっていました。そこから抹消されるまでの10日間は地獄だった。痛くてバットも振れないし。だけど何も言わなかった。骨折したなんて言ったら開幕前に落とされるとわかっていたので」
折れているかも、とは思わなかった?「思いましたよ」。病院へは?「行っていません」。つまり有鉤骨骨折というのは、登録抹消後に判明したもの?「はい。ファームに落とされて、痛いですとは言えなかった。開幕前に痛いと言えず、抹消になっても言えず。そのままやっていたら平田監督に『お前、どうしたんや。おかしいぞ』と言われて『すみません、実は』と。それで病院に行ったら折れていて即手術でした。ほんとに痛かった」
4月11日に手術をして、そこからリハビリ。そして8月3日に1軍再昇格すると、その日のDeNA戦(横浜)で途中からマスクをかぶり、9回には横山投手から1軍初安打初打点となる右前タイムリーを放ちました。
自分の若さ、弱さも表れた時期
ところが6年目の2009年は1軍出場なし。7年目、2010年は1軍で10試合、打率.が250。「6月くらいからずっと1軍にいたと思います。矢野(燿大)さんの最後の年ですね。城島さんもいて。点数が開いた試合や負けている試合の守りに出ていた」。8年目、2011年。1軍は38試合で打率.208。「東日本大震災があったんですよね。仙台にいった時、空港から移動中に見た街の様子が忘れられない」。この年、セ・パ交流戦の最初の試合がコボスタ宮城(楽天生命パーク宮城)での楽天3連戦でした。
「あ、プロ初スタメンがこの年ですね。能見さんと組ませてもらって」。その通り、9月29日のヤクルト戦(神宮)です。「それと、岩田さんの完封も!横浜スタジアムの試合で完封勝利、嬉しかった!」。これは10月7日のDeNA戦で、岩田投手が9回2安打無失点。小宮山選手は8番キャッチャーでフル出場しています。
9年目、2012年。1軍は自己最多の72試合に出場。打率は.148だったものの、9月26日のヤクルト戦(神宮)で7回、赤川投手から1軍初ホームランを放ちました。何だか神宮のヤクルト戦での出来事が多いですね。でも「この年で僕の野球人生は終わりました。身体的にもバッチリで、徐々に試合も出られるようになって、よっしゃ!やってやろうという時だったのにダメだった」と小宮山選手。思い出はここまでだと言います。
「自分の若さ、メンタルの弱さが表れていたかも。力もないのに、1軍で出ているから周りの評価は実力以上で。頑張ってもらわないと、という期待値もあって出ているのに自分はそう思っていないから、調子に乗っているような。そんなつもりはなかったけど、今考えたら…ちょっと…ダメだったなと」
その時の小宮山慎二に、何と言ってやりたい?「頑張れよ、しかないなあ。今、頑張れよ!って」。頑張っていなかったわけではないでしょうに。「いや、頑張っていなかったと思いますよ。本気で、死ぬ気でやっていなかった。隙だらけだったし。今思えば、ですけど。キャッチャーとして技術的にも足りなかったと思う。結局、あのパスボールで終わったようなものですから」
あのパスボールとは“松山の悲劇”と呼ばれる、まさかの逆転負けを喫した2012年7月3日の広島戦(坊っちゃんスタジアム)。3対1で迎えた9回表、3連打で1点差に迫られたあと重盗で2死二、三塁となったものの、最後は空振り三振で終了!と思ったら…小宮山選手がボールを逸らす間に2人を還して逆転負けという試合です。これはもう何とも言えないですねえ。キャッチャーにとっては悔やみきれない結末でした。
すごかった!伊良部さんとジェフ
ところで、球を受けていてワクワクしたピッチャーは誰ですか?と質問してみたら「伊良部さん」という返事。すぐに答えてくれました。「迫力がすごかった!球速はわかんないけど、すごく体がでかいし、投げる時にバチーン!っていう音がした。1回くらいしか捕らせてもらってないですね。ブルペンで」
懐かしいですねえ。スタンドで見ていても圧倒されるようだった迫力がよみがえります。さらに「ジェフ(ウィリアムス)もすごかった」と続ける小宮山選手。「スライダーがすごい!一度も球を受けたことがなかったのに、2007年にジェフが怪我をしたか何かで、調整のためファームでシートバッティングをやったんですよ。その時にスライダーがすごすぎて捕れなくて」
やっぱり、そんなにすごかったんですか。そりゃ打てませんわね。このシートバッティングの話にはまだ続きがあります。「スライダーだけじゃなく、真っすぐもカット気味で来るので、何球かうまく入らなくて…。ポロっとやったら平田監督が『お前、失礼だからもう代われ』って。すごかった、エグかった。速いし、メッチャ曲がるし」
藤井さんが考え方を変えてくれた
小宮山選手が印象に残っている人を尋ねたら、藤井彰人コーチの名前が出てきました。藤井コーチがまだ現役で、同じキャッチャーとして接していたころのこと。「藤井さんは今までの人と全然違った!」という言葉から、その話は始まります。「当時は一緒に1軍で、ロッカーも隣だったから話をする機会は多かったんですけど、俺の考え方を変えてくれた人です」。何がどう違ったのでしょう?
「俺はどっちかというと完璧主義なんですよ。たとえば全部ゼロで抑えたいという理想があったら、こうやって抑えようと色んなものを見て準備したり。じゃないと気が済まないタイプです。それが正しいと思っていたし、ずっとそう教え込まれていたから。でも実際は1点か2点で抑えてチームが勝てばいいわけで、そのためにどうするか?だと。だから臨機応変でないと。藤井さんはそう言いました」
「完璧主義だと初回に大量点を取られたら、そこで“は~”ってなるでしょう?そうじゃなくて、初回に5点取られても以降をゼロでいけばチームが追い上げてくれるかもしれない。また『3点取られたら3対0で負けろ』って話もありました。『先に3点取られても、そのまま終わればナイスリード。でも中押し、ダメ押しってされると、それはどうなの?ってことになる』と。そういう考えや発想は俺になかった。だから出鼻を挫かれたら、もうあかんわ~ってなっちゃっていた。それじゃいけない。完璧は無理なんだから、とわからせてくれたのが藤井さん」
引退後、藤井コーチになってからも、小宮山選手がファームにいた時はたくさん話をしてもらったそうです。「ミーティングの資料とか、俺はメッチャ見るんですよ。バーッと書く。そしたら藤井さんは『そんなん、せんでええやん』と。もちろん藤井さんもきっと、データをもらって見ていると思う。だって(リードをしている)試合で、配球の“線”が見えるというか、意図がわかるから」
「藤井さんはずっと、ちゃんと試合を見てきたからできる。でも俺はちゃんと見ていなかった。データを配られて、映像を見てわかった気でいた。でも試合は状況や点差で変わるもの。感性というか、そっちが大事なんだよって藤井さんから教わりましたね。ボーっと眺めているんじゃなくて、ちゃんと試合を見ていたら色んな発想が湧いてくるので、それが大事だと教えてもらった」
今度は小宮山選手がブルペンで球を受けながら、ピッチャーに何かを伝えてあげられたらいいですね。
最後に、16年間も現役でやると思ったかと聞いたら「3年でクビになると思っていました。自分には無理って。でも3年頑張ろう、5年頑張ろう、10年頑張ろう、15年頑張ろうと思ってやってきた」と答えています。よくやりましたね。「いや、よくやってはいないですねえ。十分ではなかった」。でも痛みに耐え、なかなか出番が巡ってこない時も黙々と練習をして、それは頑張ったということだと思いますよ。「頑張っていないです。もっと頑張れた。頑張らなきゃいけなかった」
そう言ってから小宮山選手はもう一度「もっと頑張れた」と、噛みしめるようにつぶやきました。
<掲載写真は筆者撮影>