広辞苑にも誤りあり? 「伊藤宗看」「将棋所」の記述をめぐって
「伊藤宗看」の項目修正
2018年1月12日。『広辞苑』第7版が発売されました。筆者はその発売直前、「伊藤宗看」(いとう・そうかん)の項に誤りがあるのでは?という記事を書きました。
広辞苑にも記された名棋士8人(Yahoo!ニュース 2018年1月9日)
https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20180109-00080287/
その細かい考証(?)らしきものは、以前の記事をご覧いただければと思います。ここでは旧第5版(1998年刊)、旧第6版(2008年刊)と新第7版(2018年刊)の比較のみを引用しておきます。(以下、引用中、漢数字を算用数字に直したところがあります)
三代伊藤宗看とはすなわち、伊藤家の三代目当主です。よって、「将棋宗家伊藤家始祖」は、明白な誤りでした。これは初代宗看(3世名人)と三代宗看(7世名人)の経歴の「混同」によるものです。岩波書店の方からはその旨、丁寧なメールをいただきました。
初代大橋宗桂(1世名人)や初代伊藤宗看(3世名人)以来、「宗桂」や「宗看」といった大名跡を名乗る人は複数います。さらに多くの人が「宗」の字のついた名前でした。そのためか、将棋史上の文献をひもとけば、多く混同による、誤った記載が見られるようです。
誰も好きこのんで、間違ったことを書こうとは思いません。まあ、とにかく、ややこしいんです。どこかでミスが出てしまうのは、ある意味、仕方のないところです。
伊藤宗看に関する上記の誤りは、筆者の指摘以前に、どなたかが先に気づいていて、既に修正済みだったようです。第7版では1刷目から、当該箇所は削除されていました。
辞書は人智の結晶ともいうべきものです。しかしながら、多くの正確な記述の中に、ごくわずかに、誤りがまぎれこんでしまうことも、当然あります。
『広辞苑』で誤った記述が見つかれば、大きなニュースとなります。それは逆に言えば、それだけ信頼が寄せられてきた、という証明でもあるのでしょう。
以下、浅学非才の筆者が、どんな間違いを書くか、わかったものではありませんが、これまでに調べてきたいくつかを、書き残しておきたいと思います。
「将棋所」とは何か?
先ほどの引用を再掲します。
上記の記述中、依然、違和感を覚えるところがありました。それは「将棋所の伊藤家三代目」という個所です。
そもそも「将棋所」(しょうぎどころ)とは、何でしょうか。最初に、代表的な辞書の記述を並べてみます。
似たようなことが書いてありますが、少しずつバージョンアップしたり、微妙に辞書の個性が表れている点があります。
整理すれば、将棋所とは、(1)将棋宗家の三家という「家柄」か(2)将棋指しの頭領の地位たる「職制」か、(3)最も将棋が強い、優れた技量の持ち主である「名人」の別称、別名か、ということになります。
『辞苑』は『広辞苑』の前身です。昔の『広辞苑』と『大辞泉』の記述はそっくりですね。「コピペみたい」と言われると怒られそうですが、過去の正確(と思われる)な記載に習えば、似たような記述になるのでしょう。
『広辞苑』は一貫して、(1)家柄を第一義としてきました。第7版の伊藤宗看の項「将棋所の伊藤家三代目」という記述は、その意味を踏まえたものといえるでしょう。
『大辞林』は(3)「名人の別名」としています。
『日国』は(1)(2)(3)が併記されているという感じでしょうか。
ではこれらのうち、現代の辞書の記述として、どれが最も適切でしょうか。もし筆者が選ぶとすれば、『大辞林』の記述ではないか、という気がします。「将棋所」という言葉は、筆者がこれまで目にしてきた限り、将棋史の文献では、ほぼ(3)の意味、すなわち、名人の別名・別称で使われているからです。
江戸時代、名人・将棋所は、大橋本家、大橋分家、伊藤家の中から輩出されてきました。これらの三家は「将棋家元」「将棋宗家」などと総称されます。
名人と将棋所は、細かいことを言えば、正確にはイコールではないようです。喩えて言うなら、現代の将棋界では、名人と日本将棋連盟の会長は、同じではありません。しかし江戸時代では、名人が棋界の頭領としての役割を同時に担ったため、名人と将棋所は、ほぼ同一視されていました。ですので、将棋所≒名人という説明は、個人的には一番しっくりきます。
一方で、将棋所と将棋宗家の三家(大橋本家、大橋分家、伊藤家)とでは、やや意味が離れているように思われます。
名人将棋所の地位をめぐっては、三家を代表する強豪の間で、時に争いが起こりました。しかし多くの場合は、誰もが認めるような形で、時代の第一人者が仲間内から推されて、その地位に就いたようです。
名人碁所の地位をめぐる争いは、将棋のそれとは比較にならぬほどに、激しかったようです。囲碁宗家の四家(本因坊、井上、安井、林)を代表する強豪同士はしばしば、何十番もの争い碁を、相手の息の根を完全に止めるまで打ち続けました。
岩波書店の方には、「将棋所」に関する典拠は『古事類苑』であると、教えていただきました。『古事類苑』とは何か? 広辞苑を引いてみましょう。
要するに、明治の時代に作られた、すごい辞典です。そのアーカイブは、ネット上でも見ることができます。筆者は安易に「日本すごい」という言葉を使うことには抵抗がありますが、それでもこういう辞典を見せられると、「日本すごい」と思わずにはいられません。『古事類苑』に限った話ではありません。日本初の近代的国語辞典である『言海』から、現在に至る大小様々の辞書まで、その編纂に携わる、多くの人々の営々たる努力に、敬意を表さずにはいられません。
『日国』の典拠にも記されている「遊戯三」の項は、将棋(將棊)に関する説明に当てられています。その記述を見ると、古典文献における、将棋に関するあらゆる事項を網羅されています。
「將棊所」に関しては、以下のような記述が見られます。
上記の記述に従えば、「将棋所」は幕府から俸禄を受け取る数人、あるいは将棋三家、ということになりそうです。しかし、名人将棋所は、将棋三家の中から選ばれた、同時代に一人だけ名乗ることが許される称号だとすれば、『古事類苑』(及びその出典)の記述を、そのまま現代の辞書の参考とするのは、どうなのだろうか、と思われます。
将棋史の最新研究より
『日国』は将棋所の起源から説き起こしています。かつての囲碁史、将棋史の文献には、まず最初に「棋所」(きどころ)なるものがあり、本因坊算砂がその職について、後に「碁所」と「将棋所」に分かれて、初代大橋宗桂が「将棋所」を譲られた、という記述がよく見られます。そのあたりも含めて、遊戯史研究の第一人者である増川宏一さんは、大橋本家に残された文書を精緻に研究することにより、従来の通説を、おおむね否定されています。
従来、碁所、将棋所は幕府公認の職制とされてきました。それは両分野にとっては古くからの誇りであり、アイデンティティの根幹に関わるような主張です。
1612年。本因坊算砂、大橋宗桂らが、徳川家康から、囲碁や将棋の優れた技量の持ち主ということで、俸禄を受けたことは事実のようです。しかしながら、「碁所」「将棋所」という言葉は、当時の公的な文書には残っていない。なぜか。
碁所、将棋所は、幕府公認として当時に設けられた職制ではなく、後の世にあっても、実は仲間内の自称に過ぎなかった――。それが増川さんが唱えられている、最近の通説です。
岩波書店の方からのメールでは、『広辞苑』の「将棋所」の記述もまた、増川さんの説を受けて、今後、書き改められる可能性を示唆されていました。
以下、増川さんの説がまとめられている記述を引用します。
囲碁界、将棋界の先人たちは、俸禄を受けるという形で徳川家康に認められたということが、大変なアイデンティティだった。そしてその誇りはそのまま、現在に受け継がれているところもあるようです。
しかしながら、碁所、将棋所は、本当は自称だった。幕府に対してはごまかせなくても、対外的には、実情から離れ、多少は盛って、あたかも幕府公認の職制のように、長年に渡ってふるまってきた。それが正確なところのようです。
囲碁家や将棋家の間において、名人(碁所、将棋所)は仲間内の自称だった。もしそれが事実だったとしても、これまでの名人たちの名誉を、何ら損なうものではありません。名人となる人物はほとんど、同時代に抜きん出るような、素晴らしい技量の持ち主だった。それは棋譜に残されているままの事実であり、そのことに、何ら変わりはないからです。
最近、囲碁の井山裕太七冠と、将棋の羽生善治竜王(永世七冠)の国民栄誉賞受賞が決定しました。それはいずれの分野においても快事と言ってよさそうです。ただし、国から認められて初めて、両者は偉人となった、というわけではないでしょう。国から認められようと、そうでなかろうと、両者はそれぞれの分野の歴史に燦然と名を刻む、スーパーヒーローである。そのこともまた、何ら変わりはないでしょう。